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 一方、外事警察にとっては、昼夜を分かたぬ長期にわたる作業の一つの理想形だ。ただし、ハードルが多いが故、それは容易に果たし得ない“夢の果実”でもある。

「ボガチョンコフ事件」から5年。この間、外事第一課は、米国から供与され航空自衛隊が運用していたサイドワインダーミサイルの「シーカー部」に関するマニュアルなどの入手を試みたGRUスパイ、アレクセイ・シェルコノゴフを東京地検に書類送検してはいるが、それは、帰国後2年も経ってからのことであり、外事第一課は、“悪夢の瞬間”を味わわせる仕事から長く遠ざかっていた。

「外一は存亡の危機だな」

 長期にわたる内偵の積み重ねが東京地検から受け入れられず、事件として成り立たないケースもあった。

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 警視庁公安部には「外事は年一(ねんいち)」という言葉もあるように、1年に1度、社会にインパクトを与える事件を検挙するという不文律がある中で、「外一(そといち)は存亡の危機だな」と自嘲気味に話す現場幹部もいた。捜査員全体にもフラストレーションが澱のように溜まっていた。

 だからこそ、私をはじめ外事警察、就中、対露防諜を担当する警視庁外事第一課のスパイ・キャッチャーたちにとって、サベリエフ事件は猟犬の本能を呼び覚ますものだった。

 しかし、捜査は「政治日程」から紆余曲折を辿ることになる。

 2005年は、「日露修好150周年」という特別な年だった。日本では、前年からこのムードを盛り上げるべく、地方自治体から経済団体まで「日露修好150周年」を祝い、記念する催し物が目白押しだった。

 プーチン氏は、2004年にロシア連邦大統領選挙に70%以上の圧倒的な得票率で再選。ロシアの混乱を収拾し、実利主義で国家を主導してきたプーチン大統領の指導力と「経済開発」に向けた意欲――日本の政界、経済界には、ロシアの変化を牽引しているプーチン大統領に対する警戒よりも期待が広がり始めていた。

©文藝春秋

課題は“外交関係”との駆け引き

 サベリエフ事件の動きが急になった2004年秋から翌年1月にかけ、警視庁外事第一課長、豊見永栄治警視正が警察庁外事課に来訪する頻度が上がった。

 通常の報告であれば、外事第一課の事件担当の管理官が、警察庁外事課のロシア担当課長補佐を訪ねるが、2005年の年明けになると警察庁外事課長だった私自身が豊見永課長から捜査の進捗について仔細に報告を受け、上司の瀬川勝久警備局長に報告するようになった。報告の過程で瀬川局長からは、よくご自身の外事第一課管理官当時の体験談を聞かせていただいたものだ。

 課題は、捜査の着手をめぐる“外交関係”との駆け引きであった。

 捜査情報の蓄積と分析から外事第一課は、サベリエフに“悪夢の瞬間”を見舞うXデーを3月某日と定めたが、このXデーを前にサベリエフは一時帰国して、行方をくらましてしまう。私の手帳の同日の欄には「(警視庁関係)延期」と一行。

 Ⅹデーをめぐり検討が続く中、サベリエフが6月に離任し、帰国するという情報が入る。

 最後のチャンスとなった6月初旬の木曜日に向け、慎重に、淡々と準備を続けたのだが……。