一発の銃弾も撃たず、一滴の血も流れはしないが、まぎれもなく国家の存立と国益をかけた戦場にいたといえる――前国家安全保障局長の北村滋氏は、日本のインテリジェンスの最前線に立ち、数々の修羅場をくぐり抜けてきた日々をこう振り返る。 

 ここでは、知られざるスパイとの闘い、水面下での極秘任務の数々を明かした『外事警察秘録』(文藝春秋)を一部抜粋して紹介する。北村氏が取り組んだ“最大の課題”とは――。(全2回の1回目/続きを読む)

平壌市の金日成広場 ©iStock.com

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鏡が多い高麗ホテル客室の謎

 順安空港を出たバスは、30分ほどで投宿先と協議会場を兼ねた高麗ホテルに到着した。高麗ホテルは、当時平壌で最も近代的な設備を備えていた。

 フロントを抜け宿泊客室がある21階を目指す。なぜか途中階でエレベーターが止まり、ドアが開く。そこには一切の照明がない暗黒の空間が広がっていた。

 到着した客室の調度品や内装はパチンコホールのような華美な印象。さらに、接遇は非常に丁寧だったこととの対比で若干の違和感を覚えた。

 到着以降、警察チームは外国で礼を失することがあってはならないと警察礼式にいう頭を下げる「室内の敬礼」はしたが、先方の誰とも握手はしなかった。初日の夜に開かれた歓迎夕食会も辞退した。こうした対応は警察のメンバー全員に徹底した。

「外交」のプロトコルで動く外務省と、犯罪捜査規範で動く警察との組織文化の違いからくるものかもしれないが、外事警察として対決すべき相手との間合いを考えた上での判断だった。

 到着初日の日朝双方の動きについて、手帳には、《チョン・テファ(鄭泰和)大使主催の日本代表団歓迎宴会については、警察庁関係者はその参加の目的を勘案し、欠席扱いとする》、《協議中に藪中団長に申し入れて、団長及び北朝鮮側は了解》と記されている。

 我々は、盗聴など北朝鮮側の情報活動には細心の注意を払った。とにかく一人で行動しない原則を周知徹底して、客室は相部屋にした。これを申し入れると、外務省の同行職員から「警察の人は相部屋がお好きなのですか」と妙な質問をされるはめになったのだが……。念には念を入れ、私は警察チームのメンバーが24時間寝ずに在室する客室――通称ロジ部屋――で待機することにした。

 我々にあてがわれた客室は、それにしても鏡が多かった。同行した鑑識担当の職員が部屋の内壁と外壁の厚さを測ってみたところ、人一人が入れるほどの空間が存在する。またホテルに依頼した洗濯物は、依頼者が使ったベッドの上に確実に置かれていた。なぜホテル側が、2人がどちらのベッドで寝ているかを知り得たのか、今でも分からない。