藪中団長から実務者協議の結果について一通りの説明が終わると、螺鈿装飾の漆器調の器が調査に同行した鑑識課員の手でテーブルに丁寧に置かれた。それを前に、目に涙を浮かべた滋さんが無言で座っている。初めに沈黙を破ったのは早紀江さんだった。
「めぐみは生きていますから、これは警察の方でしっかりと調べてください」
早紀江さんは毅然としてそう言い、「遺骨」を証拠として鑑定処分に付することを承諾してくれた。感傷的になることもなく、淡々とした所作だった。それは娘の生存に対する確固たる信念の発露でもあった。
2カ所で「遺骨」を鑑定
横田ご夫妻への面会後、小泉純一郎内閣総理大臣、細田博之内閣官房長官への報告。それを終えると、直ちに持ち帰った資料を捜査手続に乗せる作業に取りかかった。勿論、最優先は螺鈿装飾の漆器調の容器に入った「遺骨」だった。
私は、このめぐみさんの「遺骨」とされるものについて、あらかじめ真正だとも、偽物だとも決めつけてはいなかった。予断を持たず、科学の手に委ねようとしていた。
2004年11月18日、外務省も加わって「遺骨」の見分を終えると、翌19日には刑事手続に付されることになる。そのことを横田ご夫妻にお目にかかって改めてお伝えした。実務に当たる新潟県警は、直ちに差押許可状の発布を得てこれを差し押さえた。
遺骨鑑定における最初の重要過程は、「遺骨」の中から鑑定に適した検体を選定することだった。
作業は翌19日午後4時、警察庁16階の大会議室で、新潟県警はもとより、外事課員や科学警察研究所(科警研)の技官らが集まって始まった。
係官らが手際よく長方形の机を部屋の中央に寄せて大きな作業台を作り、紙を敷き詰める。全員が防護衣、マスクを着け、外事課員らが見守る中、科警研の職員が螺鈿様の器から骨を取り出し、テーブル上に置いた。職員らはゴム手袋をした指先で骨片を丁寧に目の高さまで持ち上げて観察し、DNAの痕跡があり、かつ、ある程度の質量がある骨片を選んでいく。最終的にDNA型の検出が最も期待できそうな10片を選び、5片ずつを2組に分けた。
同月21日には鑑定処分許可状の発布を得て、内容物を科学的に分析する体制が整うことになる。
DNA型の鑑定の依頼先については当初から、科警研とそれ以外の機関の計2カ所とする方針だった。客観性と公正性を担保するためだ。
科学警察の最高峰、科警研で得た結果を、もう1カ所の鑑定機関の結果が補強すればいいと考えていた。科警研以外の鑑定嘱託先は、当時、警視庁が微物に対するDNA型鑑定を嘱託し、目覚ましい成果を上げていた帝京大学法医学研究室とした。