かつて投資家集団「誠備」を率いて株式市場を席巻し、最盛期には1000億円を優に超える資金を動かした、伝説の相場師、加藤暠。1981年2月16日に所得税法違反で逮捕された際には、誠備銘柄が軒並み暴落し、東京証券取引所のある兜町は投げ売りのパニック状態に陥ったという。
ここでは『株の怪物 仕手の本尊と呼ばれた男・加藤暠の生涯』(宝島社)より一部を抜粋。加藤の逮捕に断末魔の叫びが響き渡る中、妻の幸子と幼い息子は検察からの逃亡を強いられる事態になった。当時、一体何があったのか。関係者が振り返る。(全6回の6回目/最初から読む)
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ロッキード事件を超えていた誠備事件
逮捕から10日が過ぎ、“誠備ショック”の断末魔の叫びが響き渡るなか、加藤の妻、幸子に一通の手紙が届いた。
〈この程ふってわいた加藤様の事件、誠に微力でご期待にそいかねている点を心苦しく思っております。
それにもかかわらずこの度は誠に結構な果物をお送りいただき一昨日落手しいただきました。
ご芳情のほど厚くお礼申し上げます。この上とも事件の成行きについては万全の注意をはらって参りたいと思います〉(1980年2月26日付)
差出人は竹内寿平。70年から3年間検事総長を務め、のちにプロ野球のコミッショナーとなる大物ヤメ検弁護士である。総長時代は、検察内の派閥争いの一掃に力を尽くしたとされ、退官後の大平内閣発足時には、民間人起用の法相候補として名前が挙がったこともあった。そこには田中角栄の意向が働いていたと言われており、その繫がりを裏付けるかのように、一時竹内は小佐野賢治が経営する国際興業の顧問弁護士に名を連ねていた。竹内自身は直接加藤の弁護を担当できない代わりに、後輩の元札幌高検検事長の蒲原大輔らに弁護を委ねたが、その後も加藤側の良き相談相手だった。交流は竹内が亡くなる八九年まで続き、幸子は竹内の葬儀にも参列している。幸子が振り返る。
「最初にお会いしたのは主人が逮捕された直後だったと思います。私も検察から任意の事情聴取を受けることになり、その相談に銀座の事務所に伺いました。乳飲み子を抱えて行くと、美味しい御蕎麦をご馳走して下さって、『何か嫌なことを言われたら私の名前を出して助言を貰っていると言って構わないから』と仰って下さいました。とても優しい方で、珈琲を一緒に飲んでいる時に砂糖をたくさん入れて飲まれていた姿が印象的でした」
竹内への橋渡しを担ったのは、歴代首相の相談役と言われた陽明学者、安岡正篤と彼の弟子で、のちに環境庁長官となった衆議院議員の林大幹である。
彼らとの連絡役は、加藤に笹川を繫いだキーマン、對馬邦雄だった。對馬は右翼の豊田一夫を通じて林に話を持ち込んだだけでなく、加藤逮捕後の後処理を引き受けた。東京拘置所に収容された加藤の接見禁止が解けると、對馬は林を伴って面会に訪れた。