かつて投資家集団「誠備」を率いて株式市場を席巻し、最盛期には1000億円を優に超える資金を動かした、伝説の相場師、加藤暠。その人脈は福田赳夫や中曽根康弘、小泉純一郎などの大物政治家から高級官僚、大物右翼、暴力団組長にまで張り巡らされていたという。
ここでは、『株の怪物 仕手の本尊と呼ばれた男・加藤暠の生涯』(宝島社)より一部を抜粋して紹介。1980年頃、2つの大きな仕手戦で悔しい思いをした加藤の言動は、どんどん大胆になっていく。そんな中、大きな転機となったのは“政財界の黒幕”と呼ばれた1人の男との出会いだった――。(全6回の4回目/続きを読む)
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特注の名刺で年齢を誤魔化していた理由
「これはホンの名刺代わりです」
加藤は、こう言って当時花形だった証券取引所の場立ちの証券ディーラーの前に2000万円を積んだこともあった。場立ちは、立会場で手サインを使って売買注文を伝達するが、彼らを取り込むことで場の雰囲気を知ることができ、なおかつ株価を煽る一助にもなると考えたからだ。
当時は場立ちが、仮名で手張りと呼ばれる個人売買をしているケースも珍しくなかった。加藤は常に封筒に100万円の束を入れて持ち歩き、麻雀の卓を囲んでいるメンバーの一人が結婚すると聞けば、さっと20万円を渡すなど、気前よくカネを切っていたという。
人脈も広がり、優良顧客が増えると、1976年(昭和51年)3月には、銀座一丁目のスポニチ銀座ビル6階に加藤事務所を構え、『日刊投資新聞』の元記者のサポートで「ダイヤル・インベストメント・クラブ」(のちにダイヤル投資クラブに改称)を設立。株式投資を希望する顧客を会員として投資顧問業務も開始した。一証券外務員の枠を超えた活躍ぶりで、1976年の加藤の歩合手数料の報酬は8500万円に達していた。その威勢を見せつけるかのように名刺は特注の二つ折りの大きなものを使った。
生年月日 昭和18年8月24日
出身地 広島県佐伯郡
出身校 早稲田大学第一商学部
趣味 囲碁、空手
生活信条 天下泰平
そこには、実際の生年である昭和16年ではなく、2年誤魔化した数字が書かれていた。高校時代に結核で休学していたことに加え、その遠因だと思い込んでいた自らの被爆体験の話題を避けたい思いがあったのだろう。被爆者に対する偏見や差別意識を目の当たりにしてきたトラウマは、そう簡単に消えるものではなかった。
