闇の紳士の貯金箱

 だが、その見返りに得た信用は計り知れなかった。2年以上に及んだヂーゼル機器株の仕手戦では、抜け駆けして売却益を得た安積に代わり、次郎丸が紅卍会の会員として笹川との関係を深めていった。そして、ある時期から平和相銀の買い方の窓口は次郎丸の日誠総業に集約されていくのである。さらに笹川の登場は、「闇の紳士の貯金箱」と呼ばれた平和相銀を起点に地下茎で結ばれた人脈や金脈が交錯する契機にもなった。

 当時、平和相銀には警察OBも多数在籍していたが、取締役だった警視庁OBの石村勘三郎は、その起点となる存在だった。のちに、平和相銀と豊田が関わった「神戸の屏風地区」の土地を巡る不正融資事件や太平洋クラブが所有する無人島を舞台に20億円ものカネが政界にばら撒かれたとされる「馬毛島事件」の人脈を引き寄せる役割を果たした。

 石村はノンキャリアで、1970年に警視に昇進し、本所署を経て警視庁の警務部付に異動した時に、小宮山英蔵自ら彼の自宅を訪れて口説き落とし、総会屋対策を担う課長待遇で平和相銀に迎えられた。実は、石村は暴力団捜査を担当する捜査四課の警部補だった時代に事件捜査を通じて豊田と知り合っている。二人は親しく交流する仲で、石村が監査役の伊坂に豊田や對馬を紹介している。その繫がりを通じて加藤とも親交を深めていくのだ。

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 東京・三田の笹川記念館の八階にあった会長室。当時、加藤に連れられ、笹川の元を訪れたライバル社の元証券マンが振り返る。

「笹川さんは、大阪の小学校時代の同級生に川端康成がいて、『やす』『りょうちゃん』と呼び合う仲だったと懐かしそうに話していました。『彼は幼い頃に両親を亡くしたが、頭が良くてお坊ちゃんだった』と。帰り際に、笹川さんが蕎麦屋に電話していたので、カツ丼でもとってくれるのかと思ったら、注文したのはかけ蕎麦で、それを三人で食べました。加藤は『笹川の爺さんが勲章を欲しがってばかりで困る』と零し、それでもあれこれ手を尽くして国内外で勲章がもらえるよう働きかけている様子でした」

加藤暠

 後日、彼は、午後3時に場が引けると、加藤に今度は新橋の「第一ホテル」に呼び出されたという。そこに待っていたのは、銀座の電通通りでクラブを経営する男だった。鎌倉高校出身だと語り、タバコも吸わず、酒も飲まない紳士然とした印象だった。ヂーゼル機器の仕手戦に嵌り込んでおり、力を貸して欲しいという。それから頻繁に会うようになったが、ある時、彼の正体を知り、付き合いを止めた。それは、稲川会の石井進だった。ヂーゼル機器の仕手戦は、加藤の周囲を軒並み巻き込み、当時は過去に例をみないほどの大相場になっていた。

 事態の収拾に向けて動いたのは笹川だった。笹川側は平和相銀が買い占めた株を引き受け、息子の笹川陽平の名義に書き換えて筆頭株主に躍り出た。そこには陽平を平和相銀の役員に就任させたい笹川の意向があったとされる。

 これに対し、東京証券取引所は、ヂーゼル機器株を「特別報告銘柄」の第一号に指定し、発行会社側に市場外で高値で株を買い取らせる“肩代わり”を目的とした買い占めの防止策を講じた。会員の証券会社に誰から、どれだけ売買注文を受けたかを報告させ、買い占め側に加担しないよう求めたのだ。そのうえで、一般の投資家にも注意喚起を促した。

 膠着状態が続いた末に、ついに特別報告銘柄の指定が解除され、ヂーゼル機器の株主であるいすゞ自動車や日産自動車など25社が笹川グループの保有株を肩代わりする形で決着をみたのは、1980年2月のことである。平和相銀も約70億円の焦げ付きを出し、当然無傷では済まなかったが、このヂーゼル機器株の処理を一手に引き受けた伊坂は行内で不動の地位を確立した。それはやがて平和相銀が住友銀行に吞み込まれることになる大きなうねりに繫がっていく。

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