逃亡劇最大の危機
83年に入り弁護団が替わり、加藤逮捕から2年が経とうとしていた2月1日。加藤母子と金沢の逃亡劇は最大のピンチを迎える。それは映画さながらの緊迫の駆け引きだった。
当時、彼女らは九州を離れ、関東近郊に舞い戻っていた。箱根でしばらく過ごした後に對馬が用意したのは、熱海駅から徒歩約五分のひと際目立つ白いリゾートマンションの一室だった。市街地と海を眼下に収める高台に立ち、源泉掛け流し温泉を備えた人気物件。しかも、何かあればすぐに動ける103号室の部屋である。
その日の昼間、東京から「對馬が検察に呼ばれたようだ」との情報が入った。この時、一緒に逃亡を続けていた女性秘書の金沢は既に熱海を離れていた。
「どうしましょうか」
幸子は對馬の部下に指示を仰いだ。
「對馬が戻るまで待っていて下さい」
電話を切った瞬間、胸騒ぎを覚えた幸子は、すぐに息子用にいつも持ち歩いていた本や身の回りの所持品を纏め、タクシーを呼んだ。そして、タクシーから足がつくことを想定し、行先は熱海駅の先の「來宮神社」と告げて、一旦そこで下車。近くの飲食店で食事を済ませた後、別のタクシーに乗り換えて、街中を避け、山間部へと向かった。そこにはヂーゼル機器の仕手戦に関わっていた平和相銀の外様四天王の一人、日誠総業の次郎丸嘉介が開発したゴルフ場併設の別荘地「南箱根ダイヤランド」があった。熱海に移る前、ダイヤランドに隣接する施設の一室を利用した幸子は、家の鍵をそのまま持っていたのだ。
その頃、特捜部内は一本のタレコミ電話に沸いていた。
「加藤の奥さんや女性秘書は、對馬が用意した熱海のマンションにいる」
電話の主は男性で、名前は名乗らず、加藤の親戚だと告げた。部屋の契約書などを入手した特捜部は、エース級の検事、中井憲治(のちの東京地検特捜部長)らを現地に派遣した。そして夕方、中井らは熱海に到着すると、逸る気持ちを抑えながらマンションの部屋に踏み込んだ。だが、そこは蛻の殻だった。炊飯器には炊き上がったまま放置されたご飯、流しには使いかけの食器があり、生乾きの洗濯物もそのまま残されていた。
「まだ座布団が温かかった」
その日夜遅く、うなだれて東京に戻ってきた中井は、検察上層部にそう報告していたという。
検察内部に重苦しい空気が漂い始めていた。
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