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最大の脅威は米軍

 協議は難航した。時間は瞬く間に過ぎ、日本側から北朝鮮に申し入れ、期間を当初日程から2日間延長した。協議時間は計60時間近くにも及ぶことになる。

 北朝鮮は日本側の調査要望事項について、「695病院」「49号予防院」「招待所に当時勤務していた者」等の「関係者」への直接聴取を容認した。北朝鮮のような閉鎖国家がよくも受け入れたものだと思うが、逆に言えば当時、金正日政権にはそれだけ拉致問題を「解決」させたい意思があったということなのだろう。

 北朝鮮がそう考えるに至った背景の一つには、対米関係を含む当時の国際環境があった。

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 2001年9月の「米中枢同時多発テロ事件」(9・11)を受け、米国のジョージ・W・ブッシュ大統領は、翌年1月の一般教書演説でイラン、イラクに加えて北朝鮮を名指しし、「悪の枢軸」と批判。その一角であるイラクでは、03年3月から始まったイラク戦争で米軍の攻撃を受け、サダム・フセイン政権が崩壊した。金正日政権は、この一連の経緯に自身の運命を重ね合わせたのではないか。

「第3回日朝実務者協議」は「悪の枢軸」演説から3年近く経過していたが、それでも北朝鮮は、米軍の存在が自国の存続への最大の脅威と認識し続けていた。

 協議において、北朝鮮は自らの調査結果に関する主張を譲らなかった。「8人死亡、4人未入境」との回答を繰り返し、我々との議論は平行線を辿った。藪中団長は険しい表情で、見通しを「厳しい」と漏らすようになった。

 そんな消耗戦の終盤、藪中団長が北朝鮮側から呼び出され、火葬済の人骨とみられるものを持って戻ってきた。我々が北朝鮮側に要求していた「横田めぐみさんの遺骨」だった。

 国交正常化交渉の入り口に立つのか、立たないのか、北朝鮮はボールを日本側に投げたつもりだったのだろう。

横田ご夫妻への報告

 代表団が帰国したのは2004年11月15日。午前9時前に平壌を出発したチャーター機は11時前、小雨降る羽田空港に着陸した。受け取った資料を速やかに、安全に、あるがままに持ち帰るため、チャーター便での帰路となった。

 当日のテレビニュースでは、機体から資料などの入ったコンテナ7個が運び出される実況映像とともに、アナウンサーが「外務省幹部は『拉致被害者の安否に関する良い情報はない』と話した」と伝えていた。

 結果報告を受け、町村信孝外務大臣は記者団に「彼ら(北朝鮮側)なりの努力は、前2回(の日朝実務者協議)に比べればあった」と発言。北朝鮮との関係を何とかしたい日本側の一縷の期待が滲む言葉であった。

 私はその足で警察庁に戻り、午後1時から漆間長官への報告。これを終えて午後3時、藪中団長や警視庁鑑識課員らとともに横田ご夫妻との面会に臨んだ。それは奇しくも27年前、めぐみさんが拉致された日である。このときのご夫妻の様子は今でも忘れることができない。