国際的に、教師という職(保育士を含む)は、弁護士・医師につぐ第三の専門職とされ、高い倍率を誇る人気の職種である。日本の教員の志願者数はここ10年減少し続け、特に2023年度は欠員(法律で定める教師の配置定数を満たせない)の学校が激増している。海外との違いは、何から生まれているのだろうか。
近年、教師のブラックな働き方が報道されるようになってきたが、問題の本質は、実はそこではない。教師一人ひとりの個人的献身に支えられる中で日本の教育の質は上がっているが、世界の教育は比較にならないほど高度化した。この高度化は、各国の教師による自助努力ではなく、教育学の発展に基づいたビジョンと政策の転換によるものである。
日本で起きている、教師のプライドの失墜
例えば90年代前半に世界的に注目され、ヨーロッパ中の保育を変えたと言われているイタリアのレッジョエミリアの保育(就学前教育)では、子どもは「子どものままで十分に知的」で、「自分の経験から世界を意味づけることのできる有能な存在」と定義されており、保育士は「子どもが世界の声を聴く、その声にならない声を聴く」専門家、つまり子どもの世界認識から学ぶ専門家として位置づけられている。意外に思われるかもしれないが、このことが保育士の地位向上に劇的な効果を発揮し、収入等も跳ね上がった。日本のように「未熟な存在の面倒をみる仕事」と思われている限り、保育や特別支援は専門職とはみなされず、待遇も改善されない。
日本の教育で起きていることの本質は、教師のプライドの失墜である。学習障害を抱えた子・情緒的に困難を抱えた子・困難な家庭の子・摂食障害や睡眠障害など精神疾患を抱える子・無気力・不登校・問題行動など、教育的な問題に追われ続け、保護者の満足のいく対応ができないと無能扱いされている状態にある。病を治せなかった医師が、やぶ扱いされていたら、医師のなり手は増えるだろうか。