プロ野球選手がセカンドキャリアを考える上で、アマチュア野球界での現役継続や指導者を目指すのはごく自然な流れだろう。ただ、プロとアマの間には、かつて高い障壁が存在した。
“出禁”が解かれるまで何十年もかかった
1961年のシーズン中、中日が社会人野球の中心打者であった柳川福三外野手を強引に引き抜いた「柳川事件」が引き金となり、社会人側がプロとの関係断絶を宣言。これに日本学生野球協会も同調したことで、プロとアマの交流は長らく途絶えることとなった。いったんプロ入りすれば、アマへの復帰や指導の一切が禁じられた。自分の子どもすら教えるのもままならない、極めていびつな規定は、こうした背景から生まれた。
双方の雪解けは極めてゆっくりと、段階的に進んだ。1984年、教員歴が10年を経過すれば、高校野球部の指導が可能となった。教員歴は1994年に5年、1997年には2年にまで短縮。そして2013年からは、教員免許を持っていなくても、数日間の研修を受ければ、学生野球資格が回復できるように大幅緩和された。
かつてドラフト1位で指名された大越基(もとい)さん(元ダイエー)や喜多隆志さん(元ロッテ)、杉本友さん(元オリックスなど)は、教員免許を取得し、それぞれ早鞆高(山口)、興国高(大阪)、宝塚西高(兵庫)の監督に就任。2017年にはプロ野球選手会と国学院大学が「セカンドキャリア特別選考入試」の協定を結び、教員免許取得や野球指導者を目指す元プロの学び直しの機会も提供された。
実家の鹿児島でお茶を売る元甲子園優勝投手
オリックスやメジャーリーグで活躍したイチローさん(現マリナーズ会長付特別補佐兼インストラクター)は研修を経て、全国の高校球児を指導している。このように、元プロのアマ指導が容易となり、セカンドキャリアの選択肢に幅が広がったことは好ましいことだといえる。
華々しいキャリアを辿りながら、野球界とはまったく別のセカンドキャリアを歩む元プロもいる。鹿児島県南九州市頴娃(えい)町で祖父・勲さんが創業、父・和幸さんが1972年に設立した「下窪勲製茶」で働く下窪陽介さんだ。下窪さんは鹿児島実業高のエースとして、1996年の選抜高校野球大会で全5試合を一人で投げ抜き、鹿児島県勢初の甲子園優勝投手となった。その称号は、今もなお下窪さん一人だけのものだ。