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 子供たちは本当に未経験で、近い設定からキャスティングされたそうだが、その驚くべき境目のなさに唖然とする。彼らは「撮影で演じる自分」と「素の自分」とを、いとも易々と演じ分けるのだ。

オーディションで選ばれたライアン(ティメオ・マオー)と監督のガブリエル(ヨハン・ヘルデンベルグ)©Eric DUMONT - Les Films Velvet

独善的な大義に取り憑かれた末に…

 しかし、この作品が素晴らしいのは、いかに素人をうまく演出したかということ以上に、映画づくりにつきまとうモラルの危うさを克明に再現しているところである。

 本物らしさは観客を魅了する。そのために演出家は、工夫と配慮とコミュニケーションに全力を注ぐ。ただ、技術のない子供に、暴力や感情の爆発は演じられない。言葉での説明演出には限界があり、演出家は、本物の感情を引き出すために「仕掛け」を試みる。

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「作品のため」という独善的な大義に取り憑かれ、一線を越えるわけだ。残酷だが、今だけだ。あとで子供に謝り、信頼回復に時間をかけよう――演出家が手元のモニターの中の迫真性にのめり込み、カメラを止めず、周囲からも孤立していく風景をも冷静に捉えているのは、この作品の監督が、「キャスティングディレクター」と「演技コーチ」としてのキャリアを積んできた二人だということで腑に落ちる。長年、あらゆる映画監督に対して「クソ野郎」と思いつつ、その葛藤に寄り添ってもきたのだろう。

映画の作り手たちが背負い続ける罪悪感

 けれど、人間が新たな「嘘」を試みる限り、関わる者が誰一人傷つくことのない演出などないのではないかとも思う。その是非のラインは永遠に不明確であり、失うものの多さと鉛のような罪悪感とは、「嘘」の作り手たちが生涯背負い続ける報いなのだと私も自覚している。