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「知らない」と答えると、若者は「ここはパレスチナの町だ。シリアにもこのような場所が何カ所かある」と話した。そんなやり取りをしているうちに、男たちの数が増え、10人ほどが近藤氏らを取り囲んだ。なかには、ヤセル・アラファト(1929~2004年)の似顔絵がプリントされたTシャツを着た男もいた。

「このままでは殺される」

「アラファトは好きか」という質問も飛んだ。アラファトは長年、パレスチナ解放機構(PLO)の指導者だった。かつては武装闘争を唱えたが、後に穏健路線に転じ、1993年にイスラエルとの和平協定(オスロ合意)を主導した。近藤氏が若者たちに取り囲まれた時期は、穏健路線に不満を持つ強硬派による内紛に悩まされたアラファトの最晩年期にあたっていた。

隊員を指導する近藤氏(左)。日本隊本部があったイスラエルのキャンプ・ジウアニで

 若者たちは近藤氏の腕にある日の丸のマークを見て、「お前は日本人か」「なぜ、日本は米国の(イラク)戦争を支持したのか」と詰問した。空気はどんどん殺気立っていった。近藤氏は「ミッションがあるので、抗議の輪を解いて解放してくれ」と言ったが、若者たちは容易に聞き入れなかった。むしろ、包囲の輪を狭め、近藤氏は「このままでは殺される」と思った。

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 精一杯、平静を装って「週末にもう一度来る。我々は日本人だ。約束は守る。武士道精神(SAMURAI Spirit)にかけてウソはつかない」と伝え、ようやく包囲の輪が解けた。

近藤氏を待ち受けていたのは…

 その後、到着したUNDOF司令部の掲示板を改めてみると、「あの町は危険だから立ち寄ってはならない」という注意書きがあった。PLOゲリラが紛れ込んでいる可能性があり、安全が確保できないという理由だった。司令部に事の顛末を報告した近藤氏は、「約束したことだから」と、再訪する考えを伝えた。カナダ人の参謀長は、近藤氏が1時間経っても戻ってこない場合にはUNDOFの救出部隊を送り込むという条件で再訪を許可した。

 その週末、近藤氏とドクターはカナシシを再訪した。3階建ての石造りの古い民家に連れていかれた。3階にある長方形の10畳くらいの部屋に通された。年功序列順に10人ほどの男が並んで座っていた。一番奥に60~70代くらいに見える長老がいた。予想外に、殺気立った雰囲気ではなく、歓迎されているような空気を感じた。