日本を国連安全保障理事会常任理事国にしたかった――。これは、1992年から96年まで国連事務総長を務めたブトロス・ガリの言葉だ。国連事務総長は2期10年を務めるのが通例だが、彼はアメリカの反対によって2期目に入れず、歴代で唯一、1期5年で任期を終えた“不運な事務総長”としても知られる。

 エジプト出身のガリにとって、なぜ日本はそこまで「特別な存在」だったのか。共同通信社でジュネーブ支局長やワシントン支局長などを歴任したジャーナリスト・会田弘継氏による『世界の知性が語る「特別な日本」』(新潮社)から一部を抜粋して紹介する。(全2回の2回目/前編から続く

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「ところで、日本へ行くと必ず東郷神社に参拝に出向いたそうですね」

 問い掛けに対して、ガリが遠い昔を懐かしむように語り出した物語は、重いものだった。

「家族の思い出にかかわることなのです。私の家族が政治家一族なのはご存知でしょう」

 祖父は英国統治時代のエジプトで首相となり、ナショナリストによって暗殺された(1910年)。叔父は反英闘争、独立運動の闘士で、のちに独立エジプトの外務大臣になった。英国統治時代、叔父はしばしば投獄され、いったんは死罪を言い渡されたこともあったという。1920年前後のことだ。

 そんな叔父が牢獄から出て家に戻ってくる度に、兄であり蔵相などを務めたガリの父と言い争った。父は言う。「英国に逆らってみたところで、どうしようもない。七つの海を支配する英国海軍が、どんなにすさまじい破壊力を持っているのか、お前は知らないからだ」

 独立革命を起こしたところで、英海軍の砲艦がナイル川を遡り、カイロの街を砲撃すれば街はあっという間に廃墟だ――。ミサイル開発以前、航空機による戦略爆撃という思想が完成する前は、砲艦こそが「戦略兵器」だった。

 ガリの父と叔父が語りあったナイル川を遡る砲艦の恐ろしさは、当時まだ記憶に新しかった英艦によるダブリン砲撃を映していたのだろう。

1992年から96年まで国連事務総長を務めたブトロス・ガリ ©AFLO

 アイルランド独立運動のイースター武装蜂起(1916年)では、ダブリンの街の中央を流れるリフィー川を英砲艦が遡り、目抜き通りであるオコンネル通りまで達した。そこから、通りの中央にある中央郵便局まで、手前にある建物を砲撃ですべて破壊、郵便局に立てこもった反乱軍司令部は丸裸となり、降参を余儀なくされている。

「いつかはエジプトだってニッポンみたいになる」

 ダブリンに出張した折に、リフィー川からオコンネル通りを中央郵便局まで歩いてみた。300メートルはある。手前は今も、(おそらく当時も)びっしりと建物が並んでいる。砲艦の破壊力のすさまじさを垣間見る思いだった。

 なるほど、浦賀沖にやって来た黒船が江戸湾奥まで侵入した時、いかに恐ろしかったかよく分かる。

 白人に有色人種がかなうわけがない。しかも相手が、世界最強の海軍力を誇る英国となれば、なおさらだ。そんな議論を突き破るように叔父が持ち出したのが、東郷平八郎だったという。

「でもニッポンは違うじゃないか。ロシアの大艦隊だって打ち破ったじゃないか。東郷提督を見ろ。いつかはエジプトだってニッポンみたいになる。東郷が現れるんだ」