そうしたエジプト人の思いや、ガリ家の昔話を聞くと、事務総長だった時代にこの人が半ば無意識のうちに、日本に大きな期待を持ち、応援したのも当然かもしれないと、得心がいった。
国民的大詩人がうたった「日本の乙女」
東京に戻って、原宿駅からほど近い、明治通り沿いの東郷神社を訪ねてみた。神社には確かな記録があった。ガリは国連事務総長時代だけで4回参拝していた。それ以前のエジプトの外交担当国務相時代にも1回来たという記録がある。本人は「数え切れないほど行った」と言っていた。学者時代も含め「私人」として、何度も来ていたに違いない。
神社には、国連事務総長ガリが夫人と一緒に、神職らの居並ぶ前で神妙に玉串を供えている写真も保存されていた。ガリが言ったとおり、英語の手紙を添えて送ってきたアラビア語の詩の写しもあった。詩は英訳されており、「日本の乙女」という題だった。日露戦争に従軍した看護婦の姿を、当時のエジプトの詩人が、戦地にいかずして想像豊かに描き出した詩であった。ガリの説明では、ある世代以上のエジプト人ならだれもが知る傑作とのことだった。
私は日本の女性です。たとえ死の苦しみを嘗めようと、
自分の望みを達せぬまま引き下がることはありません。
……
天皇(ミカド)は東洋を目覚めさせ、西洋を揺るがせた
王者と仰ぐにふさわしいお方です。 (杉田英明訳)
四十対句からなる長詩だ。うたったのはハーフィズ・イブラヒム(1872~1932)。「ナイルの詩人」の愛称も持ち、いまでも親しまれている国民的大詩人であった。
エジプトにとっての日露戦争とは、そういうことであった。中国近代化の父である孫文(1866~1925)が1924年に神戸で行なった「大アジア主義」演説でも、こんな挿話が語られている。
孫文が滞在中のパリからアジアに船で戻る途中、スエズ運河に差し掛かると、現地のエジプト人たちがたくさん船に乗り込んできて、孫文が黄色人種なのを見て「おまえは日本人か」と聞く。「ちがう、中国人だ」と答え、「なぜか」と問い返すと、エジプト人たちは「素晴らしいことを聞いた」という。「まもなくたくさんの負傷ロシア兵を乗せた船がスエズ運河を通ってヨーロッパに運ばれる。アジアの東方の国、日本がヨーロッパの国ロシアと戦って勝ったのだ。われわれは自分の国が勝ったようにうれしいのだ」……。
1924年といえば、幼いガリの父と叔父が言い争っていたころだろう。ガリの「日本の記憶」は、パリから帰る孫文がスエズ運河で出会った、大喜びするエジプト人らの姿を映している。「南の国」ニッポンが「北の国」を打ち破って、希望が見えた。
それならば、当時の日本人はエジプトをどのように見ていたのか。中東にまで及ぶ大衆の意識があったのだろうか。