共振した両国のナショナリズム
一般に、日本のイスラム世界への本格的な知的関心は大アジア主義者であった思想家、大川周明に始まると理解される。大川の『復興亜細亜の諸問題』(1922年)はインドを越えてイラン、イラク、エジプト、トルコなどの独立・近代化運動を紹介している。やがて大川はコーランの翻訳者となり、世界的イスラム学者となる井筒俊彦(1914~93)にも影響を与えた。
大アジア主義者であった大川だったが、そのイスラム圏の知識のベースは欧米の文献であった。欧米のあとを追って帝国化する日本の中に、欧米の知識を用いて反欧米帝国主義の大アジア主義が生まれ、日本帝国主義に利用されていくという、「ねじれ」が見られた。
それがガリの幼少時、孫文が大アジア主義と題する講演を神戸で行なったころの、日本のイスラム世界へのまなざしだった。もちろん、それ以前にも日本人でイスラムを研究する者はおり、イスラム教徒になる者もいたが、イスラム社会の問題が広く知識社会を通じ政治や外交に影響を及ぼした様子はみられない。
むしろ、さかのぼって、日本がまだ列強の脅威に怯え、不平等条約の改正に苦心惨憺していたころに、エジプトと精神的交流があった。大きな役割を果たしたのは、明治前半期に生まれた「政治小説」であった。矢野龍渓『経国美談』(1883~84年)と並んで、その白眉とされる東海散士の『佳人之奇遇』(1885~97年)が、一時、日本とエジプトを精神的に引き寄せた。
『佳人之奇遇』は、列強の帝国主義によって祖国を失い、あるいは引き裂かれた弱小民族の悲哀を描き出し、明治の自由民権運動やナショナリズムを掻き立てた。そこに取り上げられた弱小民族には、アイルランド、ポーランド、中国などと並んでエジプトがあった。
東海散士は本名、柴四朗(1852~1922)。戊辰戦争で朝敵となった会津の人であり、会津落城後の一家悲運の中を這い上り、『大阪毎日新聞』主筆を経て衆院議員になった。『佳人之奇遇』で虐げられた民族のナショナリズムを描いた背景には、自らの家族の悲哀があったのだろう。
柴四朗は伊藤博文内閣の農商務大臣、谷干城と欧米視察(1886~87年)に向かう途次、セイロン島(現スリランカ)に幽閉されていたエジプト独立運動の敗将アフマド・ウラービーに面会し、その人物に感銘を受けた。さらにエジプトに寄り、人々の苦難を間近に見て、帰国後、続編を書き継いでいた『佳人之奇遇』にウラービーの物語を付け加えた。こうしてエジプトと日本のナショナリズムは、共振した時期があったのだ。ガリの日本への期待のはるかな源流はそこにあったかもしれない。
ガリとパリで会った3年後、訪日したカイロ大教授の国際政治学者と京都で会って話していて、ふと思いついて「『日本の乙女』という詩を知っていますか」と尋ねてみた。
すると教授は英語からアラビア語に切り換え、朗々と詩を暗唱し出した。高校時代に習ったという。
「当時の日本人の強い決意を感じる詩でした」
戦後まもなくに生まれた教授にとって、経済大国になる前の日本のイメージはこの詩に尽きるという。「エジプト人が日本に好意を抱くのは、この詩のせいです」。教授はきっぱりと言い切った。