父と叔父の論争はガリが生まれる前後のことだが、幼い頃からこの激しい家族内の論争について聞かされた。子どものころから、周りにいる英国兵に反感を持ち、「英国は敵だ」と思っていた。叔父から投獄体験を繰り返し聞かされていたこともあったに違いない。
外務省の反対を押し切って東郷神社へ
冷戦期に東西両陣営から距離を置く非同盟運動にかかわった世代のためか、ガリは「北」と「南」という表現で、日露戦争について語った。「南の国だった日本が、北の国ロシアに勝った。エジプトにとって、東郷提督の勝利は、植民地帝国勢力である北に対する貧しい南の国々の勝利だった。植民地解放への動きだと捉えた。だから祝った」
――祝った?
「詩人たちはアラビア語で詩を読んだ。親たちは男の子が生まれるとトーゴーと名付けた。エジプトにとっては偉大な出来事だった。東郷のことなら日本人に教わるまでもない。エジプト人ならみな知っている」
かつての欧米の植民地における「日露戦争神話」や「東郷神話」について、読んだり聞いたりしたことはあったものの、これほどハイレベルの知識人で、これほど国際化した人物から、みずからの家族の歴史に絡めて直接聞かされたのは、はじめてだった。
実に「神話」であった。台湾・朝鮮半島に版図を広げ植民地帝国になった日本については捨象されている。日露戦争と東郷だけが、まるで自国の古代の神話の出来事と英雄のようになって、エジプト人のナショナリズムをかき立てていた。
ガリは長じて国際法学者となり、世界的な名声を得る。やがて、1970年代初めに学術会議で日本を初めて訪れる機会が来た。初めての東京で、当然のように周りに尋ねた。「東郷提督の墓はどこか」。墓ではなく神社が都心にあると教えられ、神宮前の東郷神社に参拝した。幼い日の英雄を祀る施設を訪れることができ、感慨ひとしおだったという。
以来、東京に来るごとに参拝した。だが、国連事務総長になると、日本外務省は平和のための世界組織、国連の事務方トップであるガリが「軍神」を祀る神社に参拝するのを嫌がった。ガリは日本政府関係者が周りにいない早朝に、そっとホテルを抜け出し、参拝に行ったという。
午後のパリの陽光を窓の外に望み、時に両手を頭の後ろで組みながら、ガリは幼い日からの自身と日本のかかわりを、懐かしげに語り続けた。
「そういえば、詩人たちの読んだ詩を東郷神社の宮司に送ったこともあった」。日露戦争での日本の勝利を読んだ詩のことである。エジプトの詩について何も知らない私は詩人の名を尋ねもしなかった。ただ、詩にも読まれるほど感動的な出来事だったのかと思うばかりだった。