日本を国連安全保障理事会常任理事国にしたかった――。これは、1992年から96年まで国連事務総長を務めたブトロス・ガリの言葉だ。国連事務総長は2期10年を務めるのが通例だが、彼はアメリカの反対によって2期目に入れず、歴代で唯一、1期5年で任期を終えた“不運な事務総長”としても知られる。

 エジプト出身のガリにとって、なぜ日本はそこまで「特別な存在」だったのか。共同通信社でジュネーブ支局長やワシントン支局長などを歴任したジャーナリスト・会田弘継氏による『世界の知性が語る「特別な日本」』(新潮社)から一部を抜粋して紹介する。(全2回の1回目/後編に続く

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 国際機関を取材するなら、ジュネーブはニューヨークよりもはるかに面白い。まず伝統が違う。国際連盟(1920~46)時代からの国際都市だ。いまではニューヨークの国際連合(国連)本部の出先機関として国連欧州本部と呼ばれるが、その建物は旧国際連盟本部である。当時から「パレ・デ・ナシオン」とフランス語で呼ばれ、いまもそれが建物の名称だ。訳せば「万国宮殿」となる。国際連盟より古い国際労働機関(ILO)などもジュネーブに本部を置く。

 会議ばかりのニューヨークとは違って、ここには国連専門機関などと呼ばれる現業部門がある。現場部隊がいるのだ。典型的なのが国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)である。世界中の難民発生現場――戦地が多いのは当然――に職員を送り出し、非政府組織(NGO)などと協力し、保護救済に当たる。銃弾砲弾が飛び交う中で、丸腰で無辜の市民を助けるようなことになる。

ジュネーブの国連欧州本部 ©iStock.com

「身長5フィートの巨人」緒方貞子

 私がジュネーブに駐在していたころ(1993~97、99~2000)、そのUNHCRのトップとして、この大組織を取り仕切っていたのが緒方貞子(1927~2019)であった。当時は湾岸戦争、旧ユーゴスラビア内戦、ルワンダ紛争、コンゴ内戦など難民を大量に生み出す内戦・紛争が引きも切らずに続いた。「身長5フィート(約150センチ)の巨人」と呼ばれた緒方が、時に自ら現地に出向き采配を振るう姿に、世界は感動していた。

 緒方の下で報道担当を務めていたアメリカ人の元ジャーナリストは身長190センチほど、体重も100キロは超える巨漢だったが、その彼が「マダム・オガタが怒ると、ほんとうに怖い」と震えるように語るのを聞いた時は、思わず噴き出した。

 緒方がジュネーブに赴任した1990年代初め、組織の士気は低かった。それから10年、ユーゴ内戦をはじめとする冷戦後の地域紛争に緒方の指揮下で対処することで、見違えるような変貌を遂げた。

 後に緒方の回想は『聞き書 緒方貞子回顧録』(2015年)として出版された。それを読むと、緒方の手腕の源泉は学者時代の研究にあったことが分かる。満洲事変を軸とした政策決定過程の研究が、国連組織での「実務に非常に役に立った」と緒方は打ち明けている。数多くのアクターが織りなす複雑でダイナミックな政策決定過程を分析するのは、学者・緒方には「大きな魅力だった」ようだが、それが国際政治の現場で生きた。「実務と研究を分けて考える」のは「ナンセンス」と言い切っている。