ガリを探すのはちょっと手間取った。てっきり故国エジプトに戻っているとばかり思っていたが、1年の半分はパリにいると分かった。事務総長を追われた後、すぐにフランス政府が面倒を見るかたちで、「フランス語圏国際機構」と呼ばれる組織の事務局長になった。これも1期で2002年には退任したが、その後もフランス首相府に属する建物内にオフィスを与えられていた。フランスとアメリカの微妙な関係がのぞいていた。
春先のパリに訪ねた当時は84歳。事務机を挟んで、ガリから聞いた物語は、はるか遠いと思っていたエジプトという国を一挙に日本に近づけた。
国連改革と日本への期待
その物語の前に、ガリの日本への期待を考えてみる。ガリが国連事務総長に就任したのは1992年1月。まさに「冷戦終結」直後であった。89年11月には冷戦構造の象徴であった、東西ベルリンを分かつ「ベルリンの壁」が市民の力で打ち壊され、その約2年後の91年末にはソ連が消滅する。
だが、冷戦が終わったと言っても、欧州正面だけの話で、アジアでは米中対立、朝鮮半島分断はなお続いている。それが米欧中心の見方に過ぎなかったことは、いまでは歴然だ。日本はアジアに残った冷戦構造のなかに今もいて、それ以前の歴史問題まで噴き出して、呻吟している。
ガリが国連事務総長になった頃は、そうではなかった。バブル経済はすでに弾けていたが、まだその後遺症の深刻さは分かっていなかった。「ジャパン・アズ・ナンバーワン」と言われた余韻が残っていた。にもかかわらず、湾岸戦争(91年)で軍事貢献ができず、「カネだけ払って済ませた」と世界中が嘲笑った。日本はその屈辱に悩んだ(いま思えば、政治家、外務省と御用記者が「嘲笑われた」という物語をつくって国民を引き回した気配もある)。
一方、その湾岸戦争では、クウェートに侵攻したイラクを米ソが一致して追い出すという、冷戦期には信じられないことが起きていた。そこに登場したガリ事務総長は「冷戦終結」の波に乗って、東西対立のせいで無力に陥っていた国連を、世界平和や紛争解決に積極的な役割を担う組織に改革しようとした。
長いあいだ懸案だった化学兵器禁止条約を、あっという間に各国が一致してつくりあげるなどということも起きた。国連や多国間組織がユーフォリア(多幸症)に見舞われていた。
虎の尾を踏んだガリ
その多幸症の中で、就任半年後にガリは「平和への課題」という報告書を出し、常時出動可能な重武装の「国連平和執行部隊」の創設を提案する。国連常備軍であり、平和維持どころか、武力で強制的に平和をつくり出すことまで担おうという構想だった。
それからほどなくして米連邦議会を牛耳ることになる共和党が一番嫌うタイプの構想だった。彼らは、国連に力を持たせるなど論外と思っている。第一次世界大戦後に、自国のウィルソン大統領(民主党)が必死でつくった国際連盟への加盟を拒んだのも共和党だったことを思い起こせば分かる。「平和への課題」でガリは墓穴を掘った。
アメリカ史をかじった者なら、そんな構想がアメリカでいずれ不興を買うのは分かるはずだ。緒方でさえ「ものすごく頭のいい人」と認めていたガリだが、多幸症にやられていたのかもしれない。