そのガリは「平和への課題」を提案して間もない1993年2月に訪日する。日本は重武装で平和をつくり出す「平和執行部隊」に参加し、大きな役割を果たすべきだ。そのために憲法9条も改正したらどうか。訪日を前に日本人記者に訴えた。これにはのけぞった。
湾岸戦争ショックを受け、はじめてカンボジアでの国連平和維持活動(PKO)に自衛隊を派遣したばかりの日本の前に、いきなり高いハードルを置いて「跳べ」と言ったようなものだ。期待が高すぎる。当時のアメリカ一極支配世界で、日本に対抗軸がつくれないか、と言っているようにも聞こえた。ソ連は崩壊し、中国はまだ天安門事件から立ち直っていないし、経済力も日本よりはるかに小さかった。欧州は足下のユーゴ紛争さえ対処しきれないありさまだった。
「日本を常任理事国にしたかった」
「日本を国連安全保障理事会常任理事国にしたかった」。昼下がりのパリ官庁街の一室で、ガリは無念の国連事務総長退任から10年後も、熱心に弁じた。「でも、1992年から93年ごろは、日本国民は腰が引けていた。正直言って、なぜだろうと思った」
なぜだろう、はむしろこちらの疑問だった。なんで、そんなに日本に期待したのか。ことによると関係があるかもしれない、と胸の内に畳み込んでいたエピソードを持ち出してみた。
「ところで、日本へ行くと必ず東郷神社に参拝に出向いたそうですね」
ガリの再任が安保理でアメリカに拒否された翌日、ニューヨーク・タイムズ紙のベテラン国連記者が、その逸話を紹介しつつ、アメリカに立ち向かうガリを、ロシアの大艦隊に立ち向かった東郷平八郎に例えた記事を書いたのを覚えていた。
ただ、記事は参拝の理由には一切触れていなかった。欧州から中東一帯にかけ、ロシアに圧迫された国々には「東郷神話」があることは広く知られていたから、背景はそんなところだろう、と思っていた。
1990年代はじめ、フィンランドのヘルシンキに取材で飛び、仕事の合間にのぞいた食料雑貨店で、東郷提督の肖像をラベルに張ったビールが置かれているのを見つけて、「やっぱり本当だった」と、ちょっぴりうれしくなったのを思い出していた。
だが、ガリが遠い昔を懐かしむように語り出した物語は、重いものだった。
「家族の思い出にかかわることなのです。私の家族が政治家一族なのはご存知でしょう」
(後編に続く)