初代宮内庁長官の田島道治が1949(昭和24)年から53年まで昭和天皇とのやりとりを記録した「拝謁記」を中心とする『昭和天皇拝謁記』(全7巻)が、岩波書店より刊行された。
天皇は母と妻をどう見ていたのか
天皇の肉声が生々しく記録されたこの史料は、天皇研究者の間に大きな反響を呼び起こした。これまで全く知られていなかった昭和天皇の等身大の姿が活写されていたからだ。各巻の巻末には編者による丁寧な解説が付され、読者への導き手になっている。
だがもちろん、解説が『拝謁記』のポイントにすべて触れているわけではない。ここでは従来あまり注目されてこなかった昭和天皇の言葉を通して、天皇が母である皇太后節子(さだこ)(貞明皇后)と妻である皇后良子(ながこ)(香淳皇后)をどう見ていたかを探ってみたい。
昭和天皇は皇太后を「おたゝ様」ないし「大宮様」、皇后を「良宮(ながみや)」と呼んでいる。両者への言及回数を比べてみると、皇太后のほうがはるかに多い。その過剰さは田島道治を狼狽させ、「陛下の大宮様に対する御批評、田島に御馴染深くなりし為か、露骨の事多くなる。(中略)御母子としては如何」(50年12月18日)と思わせるほどになる。
まず注目すべきは、天皇が戦争末期に激化した米軍の空襲を回想する50年7月14日の次の発言だろう。
天皇の重大な発言
「大宮御所を焼き、又沼津本邸を焼き、米国飛行士の話では、私の安心上早く終戦にする為との風説があつたが、単に風説ともいへぬ」
「大宮御所」は皇太后の住まい、「沼津本邸」は皇太后が41年から42年にかけて約1年間疎開した沼津御用邸本邸を意味する。前者は45年5月の空襲で、後者は同年7月の空襲で焼失した。5月の空襲では宮城の明治宮殿も焼失したが、これは類焼であって宮殿自体が標的とされたわけではなかった。