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大滝詠一が振り返る山下達郎と出会った1973年「わが生涯、輝ける最良の年」「素敵な連中とあの時代に出逢えて幸せだった」

大滝詠一が振り返る山下達郎と出会った1973年「わが生涯、輝ける最良の年」「素敵な連中とあの時代に出逢えて幸せだった」

大滝詠一没後10年#1

2023/12/30
note

〈ブリル・ビルディングものだったら、インパクトがあるのは絶対これだと思って。昔、代々木にクラシック専門のレコード屋があって、そこに100円で転がってたやつ(笑)〉(*7)

 大滝と山下は出会いがしらの印象を次のように話している。

山下 で、福生へいったでしょう。ウロウロ捜しまわってたら、のそッとしたのが出てきた。それが大瀧さん。(略)

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大瀧 おもしろかったのよオ。これはエライのが来たと思ったよ(笑)。圧倒されちゃってサ。(*3)

「ぼく、はっぴいえんどなんて知りませんよ。聴いたこともないッ!」

 山下は初対面の大滝に向かい、こう言いはなった。大滝が記している。

〈「ぼく、はっぴいえんどなんて知りませんよ。聴いたこともないッ!」/やはり73年、はじめてわが家を訪れた山下、当時19歳(注・原文ママ)はいきなりそう叫んだのだった。怪気炎タツローの異名はこの瞬間生まれた〉(*8)

 大滝は9月のコンサート「CITY - Last Time Around」でコーラスにシュガー・ベイブを起用したあと、ココナツ・バンクに続き彼らのプロデュースを行うことも決めた。

 こうしてココナツ・バンクやシュガー・ベイブが所属する自身のレーベル、ナイアガラ・レーベルの構想は固まったのだ(ココナツ・バンクは直後に解散してしまうのだが)。

 大滝が〈わが生涯、輝ける最良の年〉と称する1973年は、コマーシャル・ソングとプロデュース・ワークに明け暮れた。

 自身のソロ楽曲のリリースはなし。

 それでも音楽好きの仲間たちと出会い、彼らに囲まれて過ごす日々は、なによりも楽しかったのだろう。

 大滝はしみじみ言う。〈素敵な連中とあの時代に出逢えて幸せだったと思う〉(*8)と。

 

*1 『大滝詠一 Talks About Niagara Complete Edition』2014年
*2 『大瀧詠一 Writing & Talking』大瀧詠一、2015年
*3 『All About Niagara〈増補改訂版〉』大瀧詠一、2005年
*4 『みんなCM音楽を歌っていた-大森昭男ともうひとつのJ-POP』田家秀樹、2007年
*5 『レコード・コレクターズ』2006年4月号
*6 『レコード・コレクターズ』2006年1月号
*7 『レコード・コレクターズ』2015年9月号
*8 『BRUTUS』1985年8月1日号

大滝詠一が振り返る山下達郎と出会った1973年「わが生涯、輝ける最良の年」「素敵な連中とあの時代に出逢えて幸せだった」

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