2013年12月30日に急逝してから10年。伝説的なバンド・はっぴいえんどでの活動や、『ロング・バケイション』をはじめとするソロ作品を通して、大滝詠一が残した楽曲とその歌声はいまも色褪せることがない。しかし2003年に最後のシングル曲「恋するふたり」を発表したとはいえ、大滝の本格的な音楽活動は1984年のアルバム『イーチ・タイム』以降、約30年にわたって封印された。彼が曲作りを、歌うことをやめてしまったのはなぜか。ここでは、若き日の大滝詠一が山下達郎ら数々のミュージシャンと共に過ごした日々を振り返る。(全2回の前編/続きを読む)
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「はっぴいえんど」解散の翌年が“わが生涯、輝ける最良の年”だった
〈今にして思えばわが生涯、輝ける最良の年でしたよね〉(*1)
大滝詠一がそう語るのは、細野晴臣や松本隆、鈴木茂とともに結成したはっぴいえんどを解散した翌年、1973年のことだ。
はっぴいえんどは『風街ろまん』などのアルバムを通じ、日本語によるロックの礎を築き、約3年という短い活動期間に幕を下ろした。
そして間を置かずして、細野と鈴木は新たなバンド、キャラメル・ママを結成し、アルバムのレコーディングのための準備に入った。松本も作詞家やプロデューサーの仕事に針路を見出そうとしていた。
その一方、前年11月に初のソロ・アルバム『大瀧詠一』を発表し、この年の1月に東京郊外の福生市に転居した大滝は、彼らと距離を置くことになった。
そのころの心境を彼は〈完全に1人になってしまった〉(*2)と表現している。
次の方向性はまだ見えていなかった。
けれども1973年の彼は、さまざまな出会いを経ることで新たな道を見出した。
まずは彼のもとに予想外の話が舞い込んできた。コマーシャル・ソングの制作依頼があったのだ。
〈73年の1月、CM制作会社のONアソシエイツから連絡があります。それが〈サイダー〉のCMでした〉(*3)
ON・アソシエイツは、日本初のコマーシャル・ソングを作詞作曲した三木鶏郎の門下であるCM音楽プロデューサー、大森昭男が設立した制作会社だ。
この時期までのCMソングといえば、もっぱら既成の作曲家が作るものだった。だが大森は新しい人材を積極的に登用しようと考えており、そこで白羽の矢を立てたのが大滝だった。