2013年12月30日に急逝してから10年。伝説的なバンド・はっぴいえんどでの活動や、『ロング・バケイション』をはじめとするソロ作品を通して、大滝詠一が残した楽曲とその歌声はいまも色褪せることがない。しかし2003年に最後のシングル曲「恋するふたり」を発表したとはいえ、大滝の本格的な音楽活動は1984年のアルバム『イーチ・タイム』以降、約30年にわたって封印された。彼が曲作りを、歌うことをやめてしまったのはなぜか。没後10年を機に、その謎を数々の発言から辿る。(全2回の後編/前編を読む)
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「3年間に11枚も、よくアルバムを作ったものだと思います」
大滝は1974年になると、福生市の自宅に開設する福生45スタジオの工事をはじめ、みずから運営するナイアガラ・レーベルを発足させた。
そしてレーベルの第1弾となるレコード、シュガー・ベイブ『SONGS』のレコーディングを開始し、翌1975年4月にリリース。5月には福生45スタジオで録音した自身のセカンド・アルバム『ナイアガラ・ムーン』をリリースした。
ところが7月、アルバムの発売からわずか3ヵ月でシュガー・ベイブはナイアガラ・レーベルとのレコーディング契約を破棄する。10月にはレーベルの販売元であるエレックレコードが倒産した。
レーベルを継続するため、1976年に大滝は日本コロムビアと契約を結ぶが、「1年間にアルバム4枚」という契約内容が自身の首を絞めた。
結局、コロムビアとの契約が切れる1978年にナイアガラ・レーベルは休止。大滝は福生45スタジオを閉鎖した。
〈ようやくコロムビアとの契約期間が終わり、アルバム制作から逃れることが出来ました。3年間に11枚も、よくアルバムを作ったものだと思います〉(*3)
大滝は当時の苦しい心境を吐露している。
思うようなセールスも上がらなかった。〈ビジネスの場としても音楽の場としても失敗した〉と大滝は言う。
〈理由は沢山ある。ぼく個人の力不足、時代の状況、スタッフ作りが間に合わなかった、レコード会社の対応等々。不備を突かれて、1人去り、2人去り再び1人になった〉(*2)
苛烈な音楽ビジネスは彼を疲弊させた。
はっぴいえんどが解散した直後と同じように、彼はまたひとりになってしまった。
背水の陣で制作に取り組んだ名盤『ロング・バケイション』
そんな彼が起死回生を期して制作に臨んだアルバムが『ロング・バケイション』だった。
はっぴいえんど時代の盟友、松本隆に詞を依頼したこの1枚は、〈初めて自分を歌手として作ったアルバム〉(*2)だった。
それまで大滝は、もともと好きなメロディもののポップスを歌うことを避けてきた。というのは、同様のポップスを得意とするシュガー・ベイブがナイアガラ・レーベルにいたため、プロデューサーとしての立場で重複を回避したからだ。