1ページ目から読む
3/4ページ目

山下 そのとき熱があったんですよ。急に熱が出てきてね。特別快速に乗ってるときにだんだん具合が悪くなってきてね。これダメだと思って帰ったんです(笑)。よく覚えてるなあ。

大滝 覚えてるさ。

山下 福生スタジオでの食事、泊り込みの人の風呂、寝場所はどうしたのですか? あるんだよ、そこにちゃんと(笑)。

ADVERTISEMENT

大滝 どうすんの、こういうこと聞いて(笑)。(*9)

 大滝と山下は同じ価値観と同じ記憶を共有する、数少ない同好の士だった。

ワーナーミュージックHPより引用

 2011年の最後となる出演回では、ふたりがこんなやりとりをしている。話の種は待てど暮らせどリリースされない大滝の新譜と歌についてだ。

山下 他の番組に行きますと、「どうして新譜を出さないんですか?」とか、そういう質問になりますからね。

大滝 最近はさすがに教育効果が表れて、もう言う人は日本中で3人くらいしかいない。

山下 まだ3人いるんですか、それでも(笑)。(略)カラオケ屋さんとか行かないでしょう?

大滝 行かないね。(略)歌いたいっていう欲求が起きないんだよ。あなたとまるっきり正反対なんだよね。朝から晩まで歌っていたい人でしょう? 僕ね、朝から晩まで黙っていても平気なんだよね。(*10)

大滝を歌手活動に打ち込ませた一人のミュージシャンの存在

 そもそも大滝は〈歌を歌って、スポットライトを浴びて気持ちよかったって経験がない〉と話している。

 諧謔めいた彼の言葉によれば、その歌手人生はとっくのとうに終わりを迎えていた。

〈中3のときに卒業生を送る会っていうのがあって、そこで出し物をやった。そこで歌ったんです、全校生を前に。トニー・ベネット・ヴァージョンの〈アイ・レフト・マイ・ハート・イン・サンフランシスコ〉。(略)それで最後まで歌ったら万雷の拍手で。あれが僕の歌手のデビューであり、最後のステージだった。(略)もっと歌えばいいのにとか、歌手の面はもうやらないのかとかあるけど、そこでもう終わってんだよ(笑)〉(*1)

 1973年の出会いから40年にわたり、最も近距離で交流を続けた山下は、大滝をこう評している。

〈大瀧さんは厳密な意味ではミュージシャンというよりは、むしろコンセプトメーカー、アイデアマンという要素が強い人でした。そこを見間違えるとダメなんです〉(*11)

 それでも大滝が音楽活動に打ち込んだのは、ある人物の存在があったからだと山下は言う。

〈もともと、大瀧さんにとっての音楽的な目標というのは、常に細野さんに向けられてきた。大瀧さんは岩手から出てきて、細野さんと知り合った。東京生まれの細野さんの家にはピアノがあって、大きなステレオがあって。細野さんは楽器演奏については天才的で、何でもできる人だから、大瀧さんはそういういろいろな部分に憧れて、とにかく細野さんと音楽がやりたかったんです。そこからはっぴいえんどにつながっていく〉(*11)