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 けれども彼は、売れなければこれが最後だと決意し、背水の陣で制作に取りくんだ。そして禁じていたメロディものの封を解き、歌手としての顔を全面に出すアルバムを初めて作った。

 1981年3月21日にリリースされた『ロング・バケイション』は、オリコンのアルバム・チャートで2位を記録。発売から1年で100万枚を超えるセールスを上げた。

 大滝は見事に蘇ったのだ。

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 ところがアルバムの大ヒットは、彼にこんな考えをもたらした。

〈歌手として受けたからもういいなと思ったの。3カ月くらいで〉(*1)

 歌うことへの執着は彼にはなかった。

 思いを巡らせていたのは、ナイアガラ・レーベルの復興についてで、ソロ・アルバムを続けて作る考えは起きなかった。

 一方、周囲の人たちは『ロング・バケイション』のようなソロ作品を彼に期待した。

 なぜソロ・アルバムを作ろうとしなかったのか、大滝が自身で詳しく説明している。

〈ナイアガラ・レーベルが自分のソロを出すためだけにあるのなら“どこかのネエチャンやニイチャン”が「私も自分のレーベルが欲しいっ!」と言っているのと同等になることが嫌だったのです。73年に“プロデューサー”を目指したからこその“レーベル”であって、これは一タレントの“わがまま”などではなかったのですから〉(*3)

 大滝は1973年当時の自分の気持ちに忠実だった。

 結局、彼は1984年3月21日にソロ・アルバム『イーチ・タイム』をリリースする。ソロ作品を求める周囲の圧力から逃れるため、〈『イーチ・タイム』を“最後”のアルバム〉(*3)と決めて。

 

そして表舞台にほどんど登場することはなくなった

 それから約30年。1997年に「幸せな結末」、2003年に「恋するふたり」という2枚のシングルをリリースしたものの、2013年12月30日に亡くなるまで彼が本格的なソロ作品を発表することはなかった。

 

 それどころか表舞台に登場することもほとんどなく、ナイアガラ・レーベルの僚友である山下達郎が年始のラジオ番組で企画する「新春放談」に出演し、山下と対談するときだけが動静を知らせる唯一の機会となった。

 1984年に始まったこの「新春放談」は2011年の年始まで続いた。ある年の放送では、リスナーからのハガキに答えるかたちで、ふたりは福生での思い出を振りかえった。

山下 (リスナーからの質問)福生スタジオで録音していたころ、ミュージシャンは電車で福生まで来たのでしょうか? それとも車ですか? 車の人はどこに駐車したのでしょう?

大滝 君は電車のときと車のときがあってね。電車で来て、立川で引き返したことがあった(笑)。立川まで来てんのにね。今日は具合が悪いっていって帰ったことがあった。