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 大滝が故郷の岩手県から上京したのは1967年のこと。音楽好きの仲間たちと知り合うなかに、「ちいさい秋みつけた」や「夏の思い出」で知られる作曲家、中田喜直の甥にあたる中田佳彦がいた。

 そして中田を介し、彼の立教大学の友人である細野晴臣と出会った。

©文藝春秋

 細野や松本隆、鈴木茂とバンドを結成するのは、それからしばらくした1969年。1970年に彼らは、はっぴいえんどとしてアルバム・デビューを果たし、約3年の活動期間を通じて日本語によるロックを確立した。

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 細野は、山下の発言――〈大瀧さんは厳密な意味ではミュージシャンというよりはコンセプトメーカー、アイデアマン〉――を踏まえ、次のように話している。

〈その点では、僕は大瀧くんのミュージシャンの面をよく知ってるかもしれない。例えばはっぴいえんどを結成する前、僕の家で一緒にバッファロー・スプリングフィールドを聴いてた頃、彼が「ブルーバード」のギターソロを完璧にコピーできたと僕に言ってきたんです。で、弾いてくれたんですよ。たしかに完璧なんです。でもその後、それを生かしてあげられなかったという悔いがある〉(*11)

 はっぴいえんど結成以前の大滝は細野の家をよく訪れ、中田と3人でレコードを聴いたり、ギターを弾いたりして曲作りの勉強をした。

生涯を通して大滝が大切にしていた思い

 このころに初めて作ったオリジナル曲「真昼時」は、数十年を経て「スピーチ・バルーン」となり、『ロング・バケイション』に収録された。

 大滝はただの音楽好きにすぎなかった、この時期の思いを大事にした。

 もしかしたら山下達郎らと出会い、まだ何者でもない彼ら音楽好きたちと交流した1973年を〈わが生涯、輝ける最良の年〉(*1)と称したのも、そこに似たものがあったからなのかもしれない。

〈まあ、寂しいから楽しくやろうという事が根源にあって、そこからスタートしてるの。一人っ子だったから誰も遊ぶ人がいないから、状況を楽しくしちゃおうみたいなね〉(*12)

 果たして大滝の本心がどこにあったのかは知る由がない。

 けれども彼は、『イーチ・タイム』をリリースしたあとの、ソロ作品を封印した時期の心境について、次のように話している。それはおそらく、彼が生涯を通してなにを探し求めたかの、ひとつの答えなのだろう。

〈ようやくはっぴいえんど前の、本来の単なる音楽好きに戻れたという感じかな〉(*13)

 

*9 『山下達郎のサンデー・ソングブック』1999年1月10日放送
*10 『山下達郎のサンデー・ソングブック』2011年1月2日放送
*11 『BRUTUS』2022年7月1日号
*12 『ロッキング・オン』1982年6月号
*13 『文藝別冊 大瀧詠一〈増補新版〉』2012年