細野晴臣のソロ・デビュー・アルバム『HOSONO HOUSE』がリリースされたのは1973年5月25日。のちにYMOを結成する坂本龍一、高橋幸宏に大きな影響を与えたのがこの1枚だった。『細野晴臣と彼らの時代』の著者が日本のポップスを変革したミュージシャンの足跡を辿る。(全3回の1回目/#2#3を読む)

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坂本龍一「日本人ですごさを感じたのは細野サンと矢野顕子だけ」

 坂本龍一は細野晴臣の最初のソロ・アルバムを聴いたときの衝撃について、たびたび発言している。

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©文藝春秋 撮影/志水隆

〈1枚目のソロ・アルバム『ホソノ・ハウス』が好きだったんですよ、とにかく。(略)いきなりあれを聴いて、メジャー・セヴンスとか、フランス近代音楽に通じるような、非常に高級なコード・ワークが出てくるんで驚いたんです〉(*1)

〈ところがあとになって訊いてみたら、(略)細野サンはハリウッドの映画音楽とかミュージカルからその辺の要素を体で学びとってたのね。フランス近代音楽はハリウッドに大影響を与えてるから。だから細野サンはちゃんと勉強したわけじゃないので。でも、勉強もしてない人がさ、ドビュッシーやラヴェルの和声の本質みたいなものをアメリカ経由で完全に血肉化してたんだよ。これは驚異的だったね。ぼくがこういうすごさを日本人に感じたのは、細野サンと矢野顕子だけですよ〉(*2)

 坂本の『HOSONO HOUSE』に対する愛着は、彼がイエロー・マジック・オーケストラ(YMO)に参加する大きな契機となったし、また終生変わることがなかった。

 1973年5月25日に『HOSONO HOUSE』はリリースされた。

 

 前年末にはっぴいえんどが解散し、細野がソロとして新たなスタートを切ったこの年、のちにYMOを結成する3人はそれぞれがキャリアにおいて重要なできごとを経験した。

 細野にとっては、『HOSONO HOUSE』はもちろん彼のソロ・デビュー作であり、また録音機材や楽器を自宅に持ち込んで制作した、画期的なホーム・レコーディング作品である。

 そのような録音スタイルは、彼が埼玉県狭山市の“アメリカ村”に住んでいなければ、おそらくは実現していなかっただろう。

なぜ通常のスタジオで録音しなかったのだろうか?

〈その当時、ジョンソン・エアベースという米軍基地だった場所が、基地返還にともなって、周辺のいわゆる米軍ハウスも含めて日本人に開放されることになった。(略)僕たちが移り住んだのは50軒程の家が集まって構成されていた、アメリカ村と呼ばれる地域だった〉(*3)

 これは1971年にいち早く移り住み、それから約20年のあいだアメリカ村に暮らした小坂忠の言葉だ。