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 米兵の住居だった米軍ハウスが日本人にも貸し出されるようになったこのころ、小坂を始め多くのミュージシャンやクリエイターたちがアメリカ村に移住した。1972年に細野が転居したのは小坂家の真横だった。

 庭付きの平屋で、フローリングのリビングやダイニングキッチンやベッドルームがあり、家賃は2万数千円。隣家との垣根はなく、住人が互いの家を頻繁に行き来する開放的な住環境は、アメリカのライフスタイルそのものだった。アメリカの文化に憧れて育った当時の若者たちにとって、そこは夢の場所にほかならなかった。

 細野はこんな思い出を語っている。ドアをノックする音がしたので開けると、そこには数人のアメリカ人が並んでおり、アコーディオンの伴奏に合わせて讃美歌を歌ってくれた。そして歌唱が終わると、ポインセチアの花をプレゼントしてくれた。それはクリスマスの日のことだったという。

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©文藝春秋

 またあるときは同じようにドアが音を立てるので、就寝中の細野が目を覚ますと、近所に住むデザイナー集団WORKSHOP MU!!のメンバー、奥村靫正の飼い犬がドアに体当たりする音だった。細野はそんなのどかな雰囲気の中で、アメリカ暮らしを疑似体験していた。

 細野が初のソロ・アルバムを自宅で録音することにした理由については、当時レコーディングの現場を取材した音楽誌『ライトミュージック』が伝えている。

〈ところで、何故、こういう形でレコーディングするのか細野君に聞いてみたら「いい音をとりたい」とすぐ答えがはねかえってきた。いい音って? 「つまりいい演奏をするってことかな。それには普通のスタジオのように時間を気がねしながら、パッとするんじゃなく、家庭の延長上のようなフンイキづくりが必要というわけさ〉(*4)

細野晴臣が振り返る当時の心境

 レコーディングに参加した主な面々は、鈴木茂、林立夫、松任谷正隆、そして細野の4人。やがてキャラメル・ママ、ティン・パン・アレーの名で活動する彼らは、大半がアメリカ村に寝泊まりし(松任谷だけは、アメリカ村の湿気や集団生活が苦手だったので、杉並の実家から通った)、午後1時から6時まで、3日仕事をしたら1日休むというのんびりしたスケジュールで録音を行なった。

 録音ブースとして使われたのはベッドルームだった。8畳間にドラム・セット、ピアノ、エレキ・ピアノ、ギターやベースのアンプなどを詰め込み、ライン録りではなく、マイクで音を拾った結果、クリアではないがあたたかく、くつろいだその場の空気を録ることができた。