細野晴臣、高橋幸宏、坂本龍一の3人が最後に顔を揃え『ライディーン』を披露した19年1月の『細野晴臣イエローマジックショー2』(NHK)。そこに至るまでの日々、そして撮影現場で“最後のYMO”を目撃した取材者が語る舞台裏とは――。『細野晴臣と彼らの時代』の著者が今明かす、テレビでは見られなかった3人の物語。(全3回の3回目/#1#2を読む)

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大瀧詠一が振り返る細野晴臣と坂本龍一が出会った瞬間

 大瀧詠一や山下達郎と出会う以前に、坂本龍一をミュージシャンの世界に引き入れるきっかけを作ったのは友部正人だった。演劇関係の仲間たちと新宿のバーで安酒を飲んでいたとき、隣に坐った友部と意気投合し、坂本は友部のアルバム『誰もぼくの絵を描けないだろう』のレコーディングに参加する。そして彼のコンサートに同行して全国を回った。

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 そんな坂本に興味を持ち、声をかけてきた人たちのなかにティン・パン・アレーのマネージャーだった長門芳郎がいた。長門はその〈インテリジェンスあふれるピアノ・プレイと気さくなキャラクター〉(*17)を気に入り、坂本を大瀧や山下に紹介する。

©文藝春秋

〈そのときはまだ芸大の学生で、NHKの劇伴などもやってて〉と山下が坂本との出会いを回想している。

〈僕が聞いた話は、西荻のロフトで友部正人のキーボードを弾いてるときに長門くんが声をかけて、という。(略)彼と一番最初に会話したのは今でも覚えてるけど、どういうのを聞いてるのって訊いたら、ケニー・ランキンって。大学ノートを持ってて、5センチ四方くらいの枠で1曲分のコードを書いて。だから1ページで20曲くらい書けるの。変なやつでね〉(*18)

 そして坂本は、大瀧と山下と伊藤銀次の3人が曲を持ち寄ったオムニバス・アルバム『ナイアガラ・トライアングルVol.1』のレコーディングに加わることになった。

〈録音が開始されたのは75年11月7日(~11日)。まずは山下君の「ドリーミング・デイ」、坂本龍一君の弾くピアノのイントロで始まりました〉(*19)

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 大瀧が回想している。その後、年が明けて1976年1月に大瀧の曲「FUSSA STRUT Part-1」をレコーディングする際、坂本は細野晴臣と顔を合わせた。〈この時に坂本は細野に初めて会ったんだよね。坂本がピアノ弾いて細野に売り込んでたナァ(笑)〉と大瀧は言う。

坂本龍一が面白いと感じた大瀧詠一の“音楽の作り方”

〈「ココナツ・ホリデー」で坂本がアープを弾いたんだけど、「どうやったら音が出るのかナァ」なんてみんなでやってたんだからね(笑)、ホント。歴史の証言として書いといて欲しいね(笑)。初めてアープにさわったわけじゃないんだろうけど、音が出た、音が出たって喜んでたよ、みんなで(笑)〉(*20)