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「ファッションも音楽の一部である」観客に見えない靴にもこだわる高橋幸宏が持っていた、細野晴臣と坂本龍一にはない“天性の感覚”

「ファッションも音楽の一部である」観客に見えない靴にもこだわる高橋幸宏が持っていた、細野晴臣と坂本龍一にはない“天性の感覚”

細野晴臣ソロデビュー50周年♯2

2023/05/20

『HOSONO HOUSE』が発表されたころ、共にYMOを結成することになる高橋幸宏もまた『サディスティック・ミカ・バンド』で本格的にバンド・デビューを飾っていた。坂本龍一も学生運動と決別し……。YMOで一世を風靡する直前、若き3人の軌跡を『細野晴臣と彼らの時代』の著者が描く。(全3回の2回目/#1#3を読む)

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細野晴臣と高橋幸宏。出会いは軽井沢・三笠ホテルのダンス・パーティーだった

 1973年5月5日に発表されたデビュー盤『サディスティック・ミカ・バンド』は、ロンドンでT・レックスやデヴィッド・ボウイに感化された加藤和彦のグラム・ロック志向を色濃く反映し、また高橋幸宏が作曲した「恋のミルキー・ウェイ」においては、日本でいち早くレゲエのリズムを取り入れた。

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 日本ではまだ珍しかったレゲエについて、同じ1947年生まれの加藤と細野晴臣が当時の対談で話している。「いまレギをやりたくてネ」と話す加藤に対し、「ウン、俺もウズウズしている」と応じる細野(*9)。ちなみにレゲエは、そのころレギやレガエなどと表記されることがあった。

 高橋と細野の出会いは、高橋が高校1年生だったころの軽井沢にさかのぼる。三笠ホテルで開かれたダンス・パーティーに、細野のバンドと高橋のバンドがともに出演したこと。そこで高橋の演奏に興味を持った細野が、その夜自転車で高橋の別荘までやってきたこと。高橋がお茶漬けをスプーンとともに差し出すと、食べ終えた細野が「ぼく、スプーンでお茶漬けを食べたの初めて」と言ったこと。いずれもよく知られた話だ。

 高橋はそれから細野と交流を持つようになったが、腰を据えて一緒に音楽活動をすることはなかった。YMOを結成するころまでは。

 とはいえ、高橋は細野の活動にその後もずっと注目していて、細野のソロ作品を聴いてはミカ・バンドのメンバーに薦めていた。〈アルバムだと、やはり、『ホソノ・ハウス』がいちばんですね〉と高橋は語っている。

©文藝春秋 撮影/榎本麻美

〈細野さんが、1973年当時住んでいた狭山の自宅に楽器や機材を持ち込んで録っているから、いまで言うところの宅録のはしり。だけど、すごく音が良い。ドラムの林立夫くんの音も良い。『ホソノ・ハウス』は、歌にかかわる音楽をやる人だったら、誰もが一回は聴いて真似をする、真似をしたくなる、お手本みたいなアルバムですね〉(*7)

 実は高橋は細野が暮らしていたころのアメリカ村を何度か訪れている。

 というのも、『サディスティック・ミカ・バンド』のアートディレクションを担当したのがWORKSHOP MU!!の面々だったからだ。

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