彼の政治の季節はそのころ終焉を迎えつつあった。
一方で、結婚を機に生活費を稼ぐ必要に迫られた坂本はアルバイトに精を出し、地下鉄工事やピアノの家庭教師や酒場でのピアノ伴奏を行なうようになった。坂本は言う。
坂本龍一が困ったピアノ伴奏は…
〈いちばん困るのがリクエストっていうやつで、リクエストされちゃうとぼく何も知らないのね。歌謡曲とかポップスとか、ぼく、ぜんぜん知らないで育っているから。(略)そんなもの弾けないじゃない。ましてや歌の伴奏なんかしたことないから、弾けないわけ。ぼくは弾けません、とか言っちゃってね(笑)。困ったよね〉(*14)
坂本が演奏を断ると、酒場のマネージャーが飛んできて、大事なお客さまだから弾いてくれと彼に頼み込んだ。そうして伴奏したシャンソンや映画音楽やポップスは頭からなかなか離れなかったという。そのうち坂本は伴奏が得意になっていった。
美術学部の友人との縁で、以前から演劇関係者とのつきあいもあった。1973年6月には六本木の自由劇場で行われた自動座の公演で音楽を担当し、自動座の専属作曲家としていくつかの作品を手がけた。〈自由劇場を拠点にして活動していた“自動座”の音楽を1年半ぐらいやっていた。朝比奈尚行、串田和美、吉田日出子、柄本明らがいた〉と坂本がこのころを振り返っている。
〈アート・シアターでサム(串田和美)が芝居した時は、出演したことさえあった。74年ぐらいかな。その頃大瀧詠一と出会い、シュガー・ベイブや、当然そこにいたター坊(大貫妙子)や山下達郎と知り合った。そして大瀧のレコーディングやったり、ココナッツ・バンクをやったりしながら、だんだんこの世界に深入りした〉(*16)
坂本はミュージシャンの世界に足を踏み入れようとしていた。1974年には東京藝大を卒業し、同大学院の修士課程に進んだ。(#3へ続く)
引用
*9 『ライトミュージック』ヤマハ音楽振興会、1973年10月号
*10 『エゴ 加藤和彦、加藤和彦を語る』スペースシャワーネットワーク、2013年
*11 『東京バックビート族 -林立夫自伝-』リットーミュージック、2020年
*12 『音楽は自由にする(文庫版)』新潮社、2023年
*13 『坂本龍一・音楽史』太田出版、1993年
*14 『SELDOM-ILLEGAL 時には、違法』角川書店、1989年
*15 『NAM生成』NAM、2001年
*16 『新譜ジャーナル』自由国民社、1981年8月号
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