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「ファッションも音楽の一部である」観客に見えない靴にもこだわる高橋幸宏が持っていた、細野晴臣と坂本龍一にはない“天性の感覚”

「ファッションも音楽の一部である」観客に見えない靴にもこだわる高橋幸宏が持っていた、細野晴臣と坂本龍一にはない“天性の感覚”

細野晴臣ソロデビュー50周年♯2

2023/05/20

 細野が『HOSONO HOUSE』を発表し、高橋が『サディスティック・ミカ・バンド』で本格的なバンド・デビューを飾った1973年、坂本龍一はまだ東京藝術大学に通う学生だった。

 だが彼にもそのころ大きな変化が訪れようとしていた。

〈1973年 東京芸大の先輩と結婚。三善晃の作曲の授業に出席〉

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 坂本は自伝『音楽は自由にする』の年譜にそう記している。結婚したのは東京藝大の3年生のときだった。

〈けっこう長いこと付き合って、子どもが生まれて、結婚して、でも何か相性が良くなくて、まもなく別れてしまいました。ぼくには家族に対する責任が生じて、生活費を稼がなくてはいけない、という状況になった〉(*12)

©文藝春秋

 坂本は1970年に東京藝大の音楽学部作曲科に入学した。幼稚園のころからピアノを習い、小学5年生のときに作曲を学び始めた彼は、13歳の時点で〈ぼくは作曲家になろうと思います〉(*13)と公言していた。

 そして新宿高校に進学してからは前衛音楽や前衛芸術運動にのめり込み、同時に学生運動にも熱心に取り組んだ。〈高校一年生の時がちょうどジュッパチ(一〇・八)羽田闘争なんだよね。もう、ぴったんこなの、高校時代と学生運動の全盛期が〉と坂本は言う。

「革命はどういうふうに? やっぱり武器でやるんでしょうか」

〈高校に入ったらもうすぐにいろんな大学のセクトを訪ねて歩いたのね。法政とか明治とか中央とかの学館とか自治会室を訪ねて行ってさ。ガラガラなんて開けて自治会室に入って、お話を伺いにきました、とか言ってね。(略)それでいろいろ質問なんかしちゃって、革命はどういうふうに? やっぱり武器でやるんでしょうかとか、ある局面なんかで民青なんかとも共闘したりする場合もあるわけですか? とかさ(笑)。それで高校二年の時はもう街頭に出ていた〉(*14)

©文藝春秋 撮影/志水隆

 坂本は東京藝大に入学したあとも、美術学部の学生たちを引き連れてよくデモに参加していた(おっとりした雰囲気の音楽学部にはほとんど寄り付かず、美術学部のほうに入り浸っていたためだ)。だが学生運動は赤軍派の登場により急速に過激化し、1970年にはよど号ハイジャック事件、1972年にはあさま山荘事件が起きた。

〈僕個人は、浅間山荘の連合赤軍とか、この間捕まったけれどアラブに行った日本赤軍とかを見て、「やってられないな、何やってるんだろう、あいつら」と思った。あれで「もう政治や社会運動にはかかわりたくない」と思っちゃったから、あの弊害は大きい〉(*15)

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