気鋭の国際政治学者としてその発言が注目を集める三浦瑠麗さん。前回のインタビューでは、意外にも「ぼっち」でいじめられっ子だったという小学生時代について聞いた。続く2回目は、三浦さんにとって忘れられない思い出となっている中学時代のエピソードや、農学部に入学したものの違和感を拭えず失望していた東大時代について聞いていこう。 (#1から続く)

夕陽の差し込む教室での“人民裁判”

──中学のときもいじめは続いたんですか。

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三浦 当時はまだスケバン文化が私の中学では残っていたので、身の危険を覚えるような腕力でのいじめもありました。それから、陸上部内部でのいじめも逃げ場がなかったですね。今考えると、陸上部をやめればよかったと思うんですが、子供ってそういうことが考え付かないんですね。だから黙って部活も続けていました。

 その頃のことで強烈に覚えているのは、陸上部員が集まって、中学の木工教室で人民裁判みたいなものが行われたときのことですね。

──人民裁判?

三浦 たまたま技術の先生が顧問のひとりだったので、場所が木工教室だったのですが。もう一人の顧問の先生が、「濱村(三浦さんの旧姓)と一緒に練習をしないのは問題だ。濱村もみんなと仲直りしたいと言っているから、みんなの言い分も聞くから話し合おう」と部員に呼びかけたわけです。

 仲間はずれにしたのは女子なので、集まっていたのは全員女子でした。その和解のセレモニーというのは、夕陽が少し差し込んできた木工教室で、一人ひとり私に対する不満を順番に言っていくんです。で、言い終わるたびに一人ずつワーッと泣くんですね。

 私はそのとき自分の気持ちを表現できる言葉を持っていなかったのですが、「これが人々の心を洗い流してくれる感動の涙っていうやつなのか。ずいぶん醜いな」と思ったんですね。自分で言って、自分で感動して泣くみたいな。どんなにひどかったか、私たちの気持ちをどういう風に理解しなかったか。

三浦瑠麗さん ©榎本麻美/文藝春秋

──それは具体的にはどんなことだったんですか。

三浦 まあ、細々としたことなんです。たとえば、瑠麗ちゃんがテストの答案を返してもらって嬉しそうにしてた。私はテストの点が悪くてその日一日落ち込んでいて、「ヤバイ、こんな点とっちゃったよー」と笑いながら言ったら「そうだねー」と返したとか。男子にちやほやされていたとか。

母のしてきた「配慮」が私には出来ない

──それは三浦さんに非があることではないですよね。

三浦 でも、おそらく私は配慮が足りないんです。配慮っていうのは、うちの母親がずっとしてきたようなことです。他人のお母さんの前では「うちの子はこんなに駄目なんです」ということを言ってペコペコしたり……。私はそれを見て、「ママは私のことずっとそういうふうに思ってたんだ」とか思っちゃうタイプ。母には「能ある鷹は爪を隠せ」とよく言われました。でも、私はそのよくわからない謙遜みたいなものが、すごくウソっぽくていやだと思ってしまって、だったら人と関わらないほうがいいやと思っていました。

 彼らが嫌な思いをしたことは事実なんです。それは彼らの主観ですから。でも、そこで涙を流すようなカタルシスを求めようとする様を私は醜いと思ってしまった。とんだ茶番だと思いました。私はここで言い返してはいけない。まず直感的にそう思いました。何より言い返す気が起こらなかった。

 だけど、そのときにはっきり気づいたんです。私は人におもねらずに生きてきたし、この先もおもねることはないだろうと。もしも、人におもねって生きていたら、もうちょっと楽に生きられたかもしれないし、いじめられなかったかもしれない。でも、それは自分で選んだことなんだから、しゃあないな、と。少なくとも自分には自分で落とし前がつけられますし。