ジーパンを脱いでビキニ姿に
CMはいくつかのバージョンがつくられ、そのうちの一編は、宮崎が浜辺の木陰で周りを気にしながらTシャツとジーパンを脱いでビキニ姿になるという内容だった。これが1980年3月に放送が始まるや評判を呼び、彼女を一躍時の人へとのし上げた。取材やテレビ・ラジオへの出演の依頼が殺到し、当時、彼女の住む熊本行きの飛行機は全席がマスコミ関係者で占められていると、まことしやかにささやかれるほどであった。
そこへTBS系の昼の帯ドラマ『元気です!』(1980~81年)の主演の話が舞い込む。だが、宮崎には演技経験もないうえ、出演するなら大学を1年留年しなければならず、ますます就職に不利になるのではという危惧もあり、なかなか決められないまま時間だけがすぎていった。
結局、主演発表の前日まで迷いに迷った末、それでも引き受けることにしたのは、ここまで熱心に声をかけてもらえるのは一生に一度だと思ったのと、このとき憧れていたアナウンサーにも、ドラマの実績があればどこかでつながるかもしれないと考えたからだった。実際、ドラマのプロデューサーからは「これが終わったら帰りなさい。地元の放送局に口を利いてあげることができるかもしれないし」と言われていたという(『週刊朝日』2007年3月9日号)。
女優の道を歩んだ理由
このとき宮崎が演じたのは、明治初期、両親を殺されて高知沖の離島に逃げ延びる娘という役どころであった。ロケは過酷だったが、彼女のなかで弾けるものがあり、無我夢中になっていたという。一方であまりに自分が何もできないので悔しさも残った。
収録終盤、共演したベテラン女優・河内桃子から「今後、どうなさるの?」と訊かれ、「もう少し続けたいです」と打ち明けると、「だったら、もう少しおやりになったら」と優しく言われたという。《河内さんのその一言があったから、許される限りこの仕事を続けてみようと前向きになれたんです》と、宮崎はのちに語っている(『サンデー毎日』2015年9月27日・10月4日号)。
昼ドラのヒロインを演じたあと復学した彼女は、翌1982年に大学を無事に卒業し、それと前後して本格的に女優の道を歩み始める。ドラマ『2年B組仙八先生』(1981~82年)では真面目な教師役で人気を博した。25歳のときにはドラマ『25才たち 危うい予感』(1984年)で同年代の中井貴惠・萬田久子・桜田淳子と共演し、演技ばかりでなく、それまでほとんど関心のなかったメイクやファッションについても多くのことを学ぶ。