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監督から「このセリフは言わなくていい」と…
当時、僕は29歳。映画には10作以上出て、俳優として経験を少しずつ積み重ねていたと同時に、試行錯誤しながらようやく自分なりの演技の方法を確立しつつある時期だった。
まず、セリフを完璧に覚える。セリフから人物の感情の糸を見つけて、自分の中に落とし込んでいく。そういう方法で臨んでみたものの、根岸監督の演出は、僕が積み上げていたものを根本から覆していった。
たとえば、監督は、僕に一度セリフを言わせてみてから、
「このセリフは言わなくていい。これも言わなくていい」
そうやって、現場でどんどんセリフを省いていったのだ。
セリフは脚本家にとっても監督にとっても、この上なく大切なものだ。ギリギリまで考え抜いて紡いだセリフをあっさりと現場で抜いていくことに驚いた。そして、セリフが極限まで削られたことで、「これを言う時は、険しい表情をしよう」みたいな考えは消えていった。感情は研ぎ澄まされ、自分の心の中から湧き上がるものを純粋に表現できたような気がした。
佐藤浩市さんとのシーンで押し寄せた快感
当時の僕の演技の技術は、まだまだ足りなかった。しかし、根岸監督の演出法は、僕に集中力を与え、技術を高めてくれたと思う。
それを一番強く感じたのが、威夫役の佐藤浩市さんとのシーンだ。ウンリュウの騎手をめぐって口論になり、殴りかかってきた佐藤さんに、僕が新聞を投げつけて叫ぶ。
「暴力しかねぇのかよ!」
佐藤さんの怒声が飛ぶ。
「お前、ウンリュウ勝たせたくねぇのか!」
「勝たせてぇよ。あいつが走るとこ、俺も見てぇよ」
そう言って、佐藤さんをにらみつける。
「カット!」
監督の声が飛んできた時、それまでに経験したことのない快感が押し寄せた。