当初はまるで売れなかったが、満州で大流行した後、日本でも爆発的なヒットを記録。続いて発表された「雨のブルース」も大ヒットして、淡谷は「ブルースの女王」の称号を得る。満州や中国の戦場で惨めさに喘いでいた兵士たちは、勇壮な軍歌よりも哀愁のある淡谷のブルースを好んだ。淡谷は自著にこう綴っている。
「歌などというものは、どんなに権力で強制したところで、人人のほんとの心の底にしみ込むものじゃない。みんなが哀しがっているのに、どんな勇ましい調子と歌詞でうたいはやしたって、勇ましくも何ともなりはしない。まして勇ましい軍歌をうたって戦争が勝てるものなら変なものだ」
「淡谷さんは、相手が何だろうがケンカしてきた人です」
「淡谷さんという方は、相手が陸軍だろうが警察だろうが何だろうがケンカしてきた人です。なぜケンカするかというと、女は美しくなけりゃいけない。私の美しくなろうという思いを邪魔するものとは全部ケンカするんですよ」
こう語ったのは放送作家の永六輔である。永の言葉どおり、淡谷は戦時中であっても自分の我を貫き通した。
1938(昭和13)年5月、淡谷は歌手生活10周年のコンサートを開催する。軍部から質素なステージにするよう指示されたが、無視してステージいっぱいに花を飾り、ジャズ、ブルース、シャンソン、タンゴを歌いまくった。
翌日、警察に呼び出された淡谷は始末書を書かされる。その後、敗戦までに50枚近く始末書を書くことになったという。
なお、10周年コンサートの前月、淡谷は一人娘の奈々子を出産している。父親が誰かは明らかにされていない。相手は中国への赴任が決まっていた男だった。淡谷と一夜を過ごした後、男は中国で死去する。淡谷の妊娠がわかったのは男の訃報が届いた後だった。
きらびやかな格好を「贅沢は敵だ!」と責められても…
淡谷のトレードマークだったのが、派手なメイクとファッションである。デビューした頃からマニキュアもマスカラもつけまつ毛も香水もアイシャドウも愛用していた。「贅沢は敵だ!」と叫ぶ愛国婦人会に槍玉にあげられたとき、「これはわたしの戦闘準備なのよ」とやり返したエピソードはよく知られている。
憲兵に服装を注意されたときは「こんなつまらないことを、兵隊さんがいつまでもグダグダ言っていたんじゃ、戦争に敗けてしまいますよ」と言い放って相手を激昂させた。自分を貫き通すのも命がけである。