「あなたは歌と一緒に生き、死んでいくのね」
しかし、ピアノになじめなかった淡谷はピアノ科から声楽科に移ることになる。日本初のシャンソン歌手、荻野綾子に師事して声楽科への編入試験をパス。その後、フランスへ渡った荻野の後任の久保田稲子によって3年間にわたる徹底的な猛特訓を受ける。
どうしても出ない高音域も「死ぬ気でやれば、必ず出ます」と叱咤されてハイ・ソプラノの歌声を得た。生活苦と妹の目の病気の治療のため、ヌードモデルをしていたのもこの頃のこと。声楽科を首席で卒業した淡谷は、卒業演奏会の後に久保田からこう言葉をかけられ、自分の胸に刻み込んだという。
「あなたは歌と一緒に生き、死んでいくのね」
「十年に一度のソプラノ」と讃えられた淡谷だったが、苦しい家計のためにクラシックのほか、ポピュラー音楽、タンゴ、シャンソン、ジャズも歌って流行歌手の仲間入りをする。
浅草のステージにも立ち、エノケンこと榎本健一のレビューにも参加した。最初の夫・ジャズピアニストの和田肇と出会ったのもこの頃である。
しかし、放蕩の果てに愛人の家で暮らすようになった父を見ていた上、ヌードモデル時代に不幸な初体験(テレビのトーク番組では「犯された」と語っている)を経験していた淡谷は、結婚に対して願望も幻想もなく、良い妻にも賢い母にもなるつもりはなかったため、瞬く間に破局している。
「淡谷さん以外の誰が、この日本でブルースを歌えるのか」服部良一との出会いと「別れのブルース」
1936(昭和11)年、淡谷はコロムビアの専属作曲家となった服部良一と出会う。翌年リリースされたのが「別れのブルース」である。
ブルースを「魂のすすり泣き」だと捉えていた服部は、悲しい歌が好きな日本人のためのブルースを完成させたいと考えていた。そこで白羽の矢が立ったのが淡谷である。
ソプラノの淡谷は音が低すぎると難色を示したが、服部は「ブルースはソプラノもアルトもないんだ。魂の声なんだ」「淡谷さん以外の誰が、この日本でブルースを歌えるのか」と迫り、淡谷も承諾した。
完成したレコードは1937(昭和12)年7月に発売されたが、ちょうど盧溝橋事件が起きて日中戦争が勃発したタイミングであり、時局にそぐわないため宣伝もほとんど行われなかった。