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 山口に惹かれたのは、当時の三浦自身がなかなか自分を主張できなかったことの裏返しであったのかもしれない。そもそも彼が俳優の道に進んだのは、多分に成り行きのところがあった。

同級生は「伝説のロックスター」

 山梨出身の彼は、警官だった父親の転職にともない小学3年のとき東京に引っ越し、都立日野高校では忌野清志郎と同級生になる。清志郎は在学中よりのちに伝説となるバンド・RCサクセションを組み、プロのミュージシャンとして活動を始めていた。三浦も当時、バンドを組んでおり、RCのメンバーたちとつきあううち自分も音楽で食べていけるのではないかと思い、高校卒業後も大学には進まなかった。

忌野清志郎は高校の同級生 ©文藝春秋

 しかし、音楽の世界に入ったものの三浦はなかなか芽が出ず、それを見かねた当時の清志郎のマネージャーから勧められ、俳優の道に転じたのである。ドラマ『刑事くん』でデビューしたのは1971年、19歳のときだった。芸能界に入った当初は、何か楽しいことがあるかもと淡い期待もあったが、内実はそんなに楽しめる場所でもなく、いつでも辞めてやるという気持ちでいたという。そのあいだに山口との共演作がヒットし、純真な青年役の出演依頼が次々と舞い込んだ。本人も仕事の面白さにも目覚め、俳優として生きていくことに迷いはなくなっていく。

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 しかし、正統派アイドルのような立ち位置にしだいに違和感を覚え始める。ちょうど70年代後半のこのころ、萩原健一や松田優作といった俳優がアウトローな役柄で人気を集めていた。三浦もまた彼らに憧れ、《本当は俺だって「あっち側」の精神を持っているんだけどなあ、でも、俺はキャラクター的に「あっち側」じゃないし、昔の仲間は笑っているだろうなあ。でも、ま、しょうがないやと諦めの境地でしたね》と、葛藤を抱いていたらしい(『婦人公論』2002年9月22日号)。

 それでも三浦は俳優としては恵まれた環境にあった。そのことに彼が気づいたのは、1980年に28歳で結婚してまもなく厳しい現実に直面してからだった。たしかに結婚後も、『西部警察PARTⅡ』(1982~83年)での沖田刑事役など当たり役はあったとはいえ、出演依頼は年を追うごとに減り、ドラマに主演してもすぐに番組が打ち切りになったりと不遇の時期が続くことになる。

三浦友和・山口百恵の結婚式 ©時事通信社

32歳で長男誕生、育児に励むが…

 結婚してから4年後、32歳で長男(現・ミュージシャンの三浦祐太朗)を儲けると、おむつを替えたり風呂に入れたり、離乳食をつくって食べさせたりと、子育てに余念がなかった。三浦はのちに自伝で、当時の自分を、ジョン・レノンがオノ・ヨーコとのあいだに息子を儲けると音楽活動を休止して育児に専念したことになぞらえつつ、《ジョン・レノンと大きく違うのは、私はこの時期仕事がほとんどなくて、希望しなくても、時間がたくさんあったことです》と、やや自嘲気味に述懐している(『相性』小学館、2011年)。

 アイドルと呼ばれる年齢はとうにすぎ、かといって人生を語れるような大人でもない。ましてや司会やバラエティなど俳優以外の仕事ができるほど、自分は器用ではないという自覚もあった。何もかも中途半端で、三浦は俳優としての居場所を見失っていた。