そのころの三浦のインタビューを読むと、《子供でもなけりゃ大人でもないし……。まァ、一般的に言われる青春物というものには向かなくなってくる年齢になっている》(『週刊文春』1982年10月14日号)だの、《余り生活臭のある役とか、人間性がどうのこうのってつきつめていくものになってくると、自分の技量としても無理だし、柄としても無理だし》(『キネマ旬報』1983年8月上旬号)だのと口にし、当人もあきらかに手詰まりを感じて忸怩たる思いでいたことがうかがえる。
「俳優業を続けていられなかったかもしれない」
それでも、やがて転機が訪れる。当時映画界に新風を巻き起こしていた気鋭の監督・相米慎二から出演を依頼されたのだ。『台風クラブ』と題し、さまざまな不満を抱えた中学生を軸とするその作品は、三浦にとっては初めての低予算の単館上映の映画であり、その役どころもそれまで演じたことのない、大人の無責任ぶりを絵に描いたような教師の役であった。
しかし、この役になぜ自分なのか、三浦にはいまひとつわからなかった。相米に訊いても「夢で見たんだ、いいじゃないか」とはぐらかされるばかり。いざ撮影に入ってからも、相米は、三浦が振り向くシーンで、その振り向き方が「いかにも三浦友和なんだよな」とだけ言い残して帰ってしまったことがあった。そのときは相米が何を言っているのかまったくわからなかったが、しばらくすると、自分がいままで「青春スター・三浦友和」というイメージに無意識のうちに縛られていたことに気づく。このことが彼に新たな扉を開かせた。自伝では次のように記している。
《この時に初めて、三浦友和という、実は不確かなものだったブランドの看板を下ろすことができた。きっと、相米監督に出会っていなかったら、今の自分はありません。俳優業を続けていられなかったかもしれない。それぐらい、大きな出会いでした》(『相性』)
「いい女房を選んだなと感じたのは、あの時期」
1985年に公開された同作での演技が評価され、三浦は報知映画賞の助演男優賞を受賞している。これを機に制作現場での姿勢も変わった。《それからは視野も広がったというか、ホンをもらって自分の役だけを何とかすればいい、じゃなくて、クランクイン前に監督と意見を交換したり、アイデアを出して膨らませていく。作品づくりに参加してる一人なんだという意識が強くなりました》と後年振り返っている(『週刊文春』2011年12月1日号)。
とはいえ、それから一気に仕事が増えたわけではなく、35歳のときに東京郊外に建てた自宅を手放して借家暮らしをすべきなのではないかと悩んだりもした。ただ、そのことを三浦のほうから百恵さんに話したことは一度もなく、彼女もおそらくそのことに気づいていたにもかかわらず、訊いてくることはなかったという。そもそも彼女は結婚してから三浦の仕事のことには一切触れずにきた。このときも妻がブレなかったことに彼はかなり救われたようだ。あるインタビューではこんなエピソードも明かしている。