そしてPMSやパニック障害を抱えた人たちを、“生きづらさを抱えた人たち”という映画宣伝の常套句に収めることなく、もちろんキャラクター設定のひとつとして処理することもなく、私たちのすぐ隣にいるかもしれないひとりの人物として描き、その心にかかる靄をありありと伝える。
自分と同じ、ではなく、自分とは違う
とはいえ、誰かを理解することはそう簡単ではない。個性はひとりひとり異なり、苦悩もまたひとりひとり異なるから当然だ。
それゆえこの映画の主人公たちは、自分とは異なる相手を、つまり他者を努めて理解しようとする。
例えば藤沢は、パニック障害について書かれたブログを発見し、「生きるのが辛い。でも死にたくない」とさえ吐露する、その悲痛な心情を知る。山添も、おそらくは漠然としか知らなかったPMSに関する知識を、みずから積極的に取り入れようとする。
そうすることによって、ふたりは初めて互いを理解し、認め合う。自分と同じ、ではなく、自分とは違う、と気づくことによって。
全編を貫く「他者へのいたわり」
この映画が足場にしているのは、そんな他者へのいたわりだ。そしてその足場というか、全編を射ぬくそのまなざしは、主人公たちの関係性が“友人”にも“恋人”にも変化せず、「藤沢さん」「山添くん」と呼び合う“同僚”のまま留まりつづける点において、より鮮やかになる。
藤沢と山添の間を行きかうのは、愛情や友情のようにくっきりした、ドラマチックな感情ではない。ということは、物語としてドラマチックな展開を見せるわけではない。
にもかかわらず、この映画が観る人の胸を打つのは、過度な感情表現も、過度に劇的な展開も排し、ふたりを澄みきった目で見つめることにより、本来は繊細で、細やかで、よく見ようとしなければ見落としてしまいがちな、心の機微をすくい取るからだ。
すぐには理解できないものを、よく理解しようとすること。
すぐには見えないものを、よく見ようとすること。
この映画にはその大切な気づきの糸口がある。