能登半島地震の被災者の避難先に物資を持って駆け付け、自ら食事も振る舞ったことが大きな話題となっている俳優で歌手の杉良太郎(79)。長年の福祉活動などを通じて、芸能界から政財官界まで幅広い人脈を築き、その知られざる人間関係については月刊「文藝春秋」の連載で語っている。

元住友銀行(現・三井住友銀行)会長で、「住銀の天皇」とも呼ばれた磯田一郎とも、その晩年に至るまで親交があった。豪胆な人物という世間のイメージとは対照的に、杉は磯田の繊細な面が強く印象に残っているという。磯田の会長時代から晩年の「最後の会話」に至るまで、杉が初めて明かした。(聞き手・構成=音部美穂・ライター)

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「住銀の天皇」に会った最後の日

 あの日、リーガロイヤルホテル大阪の一室に入って驚いた。ホテルの中で一番狭いんじゃないかっていうぐらいこぢんまりした部屋でポツンと座っていたのが、かつて“住銀の天皇”と言われた人だったから。

「杉さん、今の僕はね、こんなところにいるんだよ。変わったもんだよねぇ……」

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 力なくつぶやく横顔。いつも「会長、会長」って大勢の部下に囲まれていた人が、こんな狭い部屋で息を潜めているなんて。どんな言葉をかけても、慰めにも励ましにもならない。そんな気がして、僕は何も言えなかった。そしてこれが、僕が磯田会長に会った最後の日になった。

杉良太郎

 長年の芸能活動と刑務所慰問・視察や被災地支援などの福祉活動を通じて政財官界に幅広い人脈を築いてきた歌手で俳優の杉良太郎(79)。

 住友銀行の頭取・会長で経団連副会長も務めた磯田一郎(1993年没、享年80)は、「向こう傷を恐れるな」という号令の下、剛腕をふるい、住銀を都市銀行のトップに押し上げた一方で、“住銀の天皇”として権力を恣(ほしいまま)にした人物とされている。しかし、杉が見てきたのは、そのような世間のイメージとは真逆の磯田の姿だった。

 磯田会長は長いこと人事を左右する立場にいたから、当然恨みも買っていた。ドラマ同様に、銀行員にとって人事をめぐる熾烈な争いはまるで戦争だからね。「自分こそ次の頭取だ」と信じていた副頭取が頭取になれずに転籍……なんてことはザラにある。住銀の副頭取からアサヒビール社長になり、同社の再建に尽力した樋口廣太郎さん(2012年没、享年86)は、転出時には「アサヒでやれることは何でもやります」と気を吐いていたけれど、はらわたは煮えくりかえっていたはず。間近で見ていると、そういう人間関係が手に取るようにわかるんだ。

 ある時、磯田会長に「権力闘争を続けていたら、足を引っ張る人が出てくる。恨まれるだけだから、もう会長なんてやめた方がいい」と忠告したことがあった。磯田会長は聞く耳を持たなかったけど、対人関係のストレスは確実に溜まっていたと思う。たいして酒も飲めないのに、出歩くようになってしまって、心配した奥様から「主人が今夜も外出してしまったの。止めてもらえませんか」って電話がかかってきた。それで僕が会長を諭すと口論になった。

「会長なんだから、飲み歩いちゃダメなんですよ」

「杉さん、あんたね、僕はお酒の一杯も飲んじゃダメだというの?」

「ダメです。そういう立場ですから」

「もういい!!」

 バーン、と電話を切るけど、またすぐにかかってくる。

「どうしてダメなの……?」

「会長、分かっているでしょ? ストレスが溜まっていても変な飲み方はしないで。人に見られているんだから」