松島 まるで家事をしたことがなかったので、「両立は無理だ」と、初めは仕事を休んで介護に専念しようかと考えていました。でもケアマネージャーさんに「介護というのは、いつまで続くかわからない戦いです。1年か2年で終わるかもしれないし、10年続くかもしれません。そのときになって『母が亡くなったから仕事を再開します』と言ったところで、誰が仕事をくれますか? お仕事をいただけているなら続けなさい」とはっきりアドバイスされました。みなさんいろいろ教えてくれたけど、一番役に立った助言はこれですね。あのとき活動休止していたら、いまの私は果たしてどうなっていたことでしょう。
――2018年10月放送の『徹子の部屋』で、母親が認知症になったこと、介護をしていることを公表しましたよね。
松島 『徹子の部屋』のあとは『爆報!THE フライデー』(TBS系)で再現VTRも作っていただきました。とても大きな反響があり、同じく親の介護をしている方々から「自分も頑張ろうと思いました」といった感想が届きました。
なんだこりゃと思ったのは、年配の男性から結婚の申込みがずいぶん来たことです。どうも家庭的な人間だと思われたみたいで、「こんな優しい人に僕の介護もしてもらいたい」って言うんです。尊敬しきっている母親が相手でも嫌気が差しているのに、誰が知らないじいさんの面倒を見るって言うんですか。つくづく男の人ってバカだなと思いました(笑)。
戦争がなければ、絶対に芸能人になっていない
――戦後、子役スターとして名を馳せた松島さんが母親の介護をしていることに勇気づけられた人は多かったでしょうね。松島さんは3歳でバレエを習い、それをきっかけに芸能界デビューしたそうですね。4歳にして一家の大黒柱になったとか。
松島 満州から日本に戻った後、母の実家で暮らしていましたが、明治生まれの祖母は、「女が働くなんて卑しい。男の人が稼ぎ、女はそのお金をいただいて生活するものだ」という価値観の持ち主でした。しかし父は私が生まれる前に兵隊にとられて消息不明でしたし、祖父はもう亡くなっていて、うちには肝心の男の人がいない。仕方なく母は幼い私を家に残してタイプライターの訓練に出ていました。
4歳でスカウトされてデビューしましたが、私は好きで芸能活動を始めたわけではなく、母も好きで娘を子役にしたわけではなく、母娘が一緒にいるためにはその道しかなかった。戦争がなければ、私は絶対に芸能人になっていませんでした。
――満州を引き揚げてからは芸能界を二人三脚で歩み、普通の母娘以上の絆があったんでしょうね。