楽曲では何より、秋元康の詞に筒美京平が曲をつけた「なんてったってアイドル」(1985年)が、小泉を一躍メタアイドルへとのし上げた。ただ、最初にこの曲をもらったときは戸惑ったという。後年のインタビューでは、《『また大人が悪ふざけして。これ背負わされるのかよ』って思いましたけどね(笑)。『ヤだなあ』って。でも面白いし、他に歌う人がいないのもわかるよ、って。そうすると、そこから具体を考えるしかないから、こんな衣装で、こんなことやろうって決めていくんだけど、最初は毎回『もう、ヤダ~』みたいな(笑)》と、当時の複雑な心境を明かしている(『MEKURU』Vol.7、2016年)。
小泉の先鋭的だったり過激だったりするイメージは、あくまで周囲がつくりあげたものであった。それでも彼女が消費され尽くすことがなかったのは、“アイドル・小泉今日子”を客観的に見つめ、楽しむことができたからだろう。上記のインタビューによれば、当人も、自分がどんどん人気者になっていく様子を、「ほら、やっぱりみんなこういう子を求めてるじゃん」「女の子は絶対こういう子に憧れあるもんねえ」などとビジネスマンみたいな気分で眺めていたという。
クリエイターやファンから一種の時代のイコンとして祭り上げられる一方で、小泉自身もつくり手として目覚めていく。そのきっかけを与えてくれたのは、彼女が師と仰ぐ何人かの恩人たちであった。前出の音楽ディレクター・田村充義からは作詞するよう導かれ、そのおかげで1991年に自ら詞を書いた「あなたに会えてよかった」が初のミリオンヒットとなり、日本レコード大賞の作詞賞(ポップス・ロック部門)も受賞した。
演出家の辛らつな評価
俳優としては、デビュー2年目の1983年に出演したドラマ『あとは寝るだけ』で演出家・久世光彦と出会ったことが大きい。久世の指導は厳しく、何度もリテイクを繰り返した末に、「小泉が下手なんで、このシーンはカットしてください」と言い放ったりと容赦なかった。それでもいくつものドラマで彼女を起用し、《褒めてくれるときは「もう今日死んでもいいや!」ってくらい褒めてくれる》人であったという(『サンデー毎日』2020年8月2日号)。
久世は2006年に急逝するが、その前年の対談では、小泉に《突然どうしようもなくへたになったりもするんだな。でもいつもお行儀のいい点数を取られるよりも、0点があるほうがいいの。意外な楽しみがあるから、僕ら一緒にやってるんだよ》と語りかけていた(『BRUTUS』2005年10月15日号)。最後にくれた手紙でも、小泉の成長を喜びつつも「上手いの先には、そんなに広い世界はありません」と書かれており、以来、その言葉はいつも彼女の頭のどこかに張り付いているという(『東京人』2009年9月号)。
文筆活動もいまの彼女の主要な仕事の一つとなっているが、そのきっかけはマガジンハウスの編集者・淀川美代子が与えてくれた。淀川は1994年、編集長を務めていた女性誌『anan』で、文章の書き方などわからないという小泉を説き伏せて連載エッセイ「パンダのanan」をスタートさせた。彼女にとってこれが初の本格的なエッセイで、1997年に単行本化されるとベストセラーになる。
それ以前から小泉は読書家として知られていた。もともと人見知りだったので、仕事の現場で他人に対し《失礼でない拒絶をしたくて、小道具として本を読みだしたら、そのうちに小道具が本当の道具になっていき》、がぜん読むことが楽しくなったという(『婦人公論』2015年11月10日号)。ミヒャエル・エンデの『モモ』や吉本ばななの『キッチン』など、彼女がテレビなどで紹介してベストセラーとなった本も少なくない。