事務所から独立してこの1月で6年が経ち、小泉はきょう2月4日には58歳の誕生日を迎えた。神奈川・厚木出身の彼女が芸能界にデビューするきっかけは、中学3年生だった1981年、伝説のオーディション番組『スター誕生!』に応募して合格したことである。このころ、学校でテレビ番組などのオーディションに応募するのが流行っていたので、とりあえずハガキを送ったのだという。
後年のインタビューでも、『スタ誕』を受けた動機について、《歌うのが好き、というよりも「スター誕生!」を見たりするのが好きだったんですよね。歌番組とかも見るのが好きで一緒に歌ってたりはしたけど、自分がなるとはまったく思ってなかった。なりたいとかいうんじゃなく、全然違う世界という感覚。でもオーディションの場所を見るぐらいならいいかあ、みたいな》と語り、ごく軽い気持ちで受けたことを強調している(『月刊カドカワ』1993年2月号)。
「中学校の時に一家離散して…」
他方で、オーディションを受けた背景には家庭の事情もあったらしい。ある対談では、《中学校の時に一家離散して、私にも何かできないかと思って、オーディションを受けて。「これで迷惑かけないで済む!」って気持ち、思えばそれが、最初の覚悟だったのかもしれません》と語っていた(『小泉放談』宝島社文庫、2017年)。「一家離散」とは、このころ父親の経営していた会社が倒産し、母と二人の姉とで実家を離れたことを指す。
「一家離散」という言葉には悲壮感が漂うが、小泉がエッセイ『黄色いマンション 黒い猫』(新潮文庫、2021年)などで当時を回顧しているのを読むかぎり、それなりに楽しく暮らしていたことがうかがえる。このあと父が諸問題を解決し、彼女だけ実家に戻るも、直後には芸能界に入ったため東京で独り暮らしを始めた。1982年3月にはシングル「私の16才」で歌手デビューする。デビュー当初は自分が何をしたいのかもわからず、《夢遊病のようにただ体が動いていた感じで、一年ぐらいしてやっと、あ、歌手になろう、と気がついたみたいな感じでした》と、のちに振り返っている(『ミュージック・マガジン』1987年4月号)。
髪型も、デビュー当初は、同期の女性アイドルが皆そうだったように、いわゆる「聖子ちゃんカット」だったが、1年後、短髪に変える。彼女の音楽ディレクターに田村充義が就き、作曲家に筒美京平を迎えて5枚目のシングル「まっ赤な女の子」をリリースするタイミングであった。これを機に小泉は、正統派アイドルから「かっこいい」アイドルへとシフトしていく。
突然、刈り上げショートに
翌1984年には突然、髪を刈り上げて世間を驚かせた。彼女いわく《当時憧れていたモデルさんたちもアーティストも、皆ショートカットでかわいいのに、「アイドル界、遅れてる!」って気持ちに、すごくなっていて》、事務所には「髪を切ってきます」とだけ言って、確信犯的に短くしてしまったらしい(前掲『小泉放談』)。
こうした行動や、自分を「コイズミ」と姓で呼んだりする開けっぴろげなキャラクターに惹かれ、音楽のみならず広告や出版など各業界がこぞって彼女を起用し、気鋭のクリエイターたちの手になるさまざまな先鋭的な試みが繰り広げられた。80年代には、雑誌の表紙に全身黒塗りで登場したり、写真集で魚拓ならぬ“人拓”に挑戦したりと、過激なパフォーマンスでも話題をさらった。