『花影』は連日大盛況となる。雄琴の評判はたちまち全国のソープ業者に伝わった。東京・吉原や千葉・栄町、横浜・福富町といった当時の先進ソープ地帯である関東から多くの業者がソープ嬢を連れて雄琴に集合した。雄琴はソープの新店のオープンラッシュとなる。「雄琴は稼げる」という評判はソープ嬢の間でも口コミで広がり、人手不足に悩むことはなかった。
『花影』が開店して2年目の1972(昭和47)年に24軒、3年目の1973(昭和48)年に31軒と急増していく。最盛期の1980(昭和55)年には49軒のソープがあった。
ついたあだ名は…
雄琴のソープが大繁盛した理由は、このころの関西が「ソープの不毛地帯」だったことが挙げられる。京都や大阪にあったが、サービスが過激な店でも指技だけ。福原にあった風俗店「浮世風呂」は本番をするだけで、関東の店のような客を喜ばせるテクニックはなかった。そんななかで、本番プラス前後のサービスもたっぷり施した関東流のプレイを施す雄琴の繁栄は当然だった。
時代もあと押ししていた。マイカーブームによって爆発的ともいうべきモータリゼーションの時代が到来していたのである。雄琴は京阪地区と北陸の敦賀を結ぶ動脈の国道161号に面しており、京阪神を行き来する自家用車がひっきりなしに往来する場所だった。
この車社会化の到来が、ひなびた温泉街の近くの農村に性のマーケットの飛躍的拡大をもたらした大きな要因だ。来客者の車のナンバープレートには京都、大阪といった関西圏はもちろん、遠く金沢や鳥取のものもあった。
週刊誌がジャンジャン書き立てたこともあり、雄琴の名前は「ソープ団地」として全国に知れ渡るようになった。雄琴は、まさに「昭和元禄が生んだ新しい時代の遊廓」として昭和40年代末から50年代初頭(1970年代)に繁栄をきわめた。