時代劇や落語の世界で見聞きする「吉原」。かつては江戸幕府も公認の遊郭だった同地がある日を境に勢いを弱め、ついにはその町名も消滅した理由とは? 風来堂編著『ルポ 日本異界地図』(清談社Publico)より一部抜粋してお届けする。(全2回の1回目/後編を読む)
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江戸時代に隆盛を極めたナゾの街「吉原」
高下駄を履いた遊女が練り歩く花魁道中などでよく知られるのが遊廓・吉原だ。
吉原遊廓が誕生したのは1618(元和4)年のことだ。江戸の地に男性たちを相手にする遊女屋がいくつもでき始め、そのうちのひとつを営む庄司甚右衛門が幕府に願い出て市中に点在していた遊女屋を1ヵ所に集めて遊廓を開いた。吉原は京の島原(京都市下京区)、大坂の新町(大阪市西区)と並んで三大遊廓と呼ばれ、幕府公認の遊廓となっていた。
もともと吉原は現在の中央区日本橋人形町のあたりにあった。葭や茅が生い茂る湿地帯で、それらを刈り取って盛り土をして地盤を形成した。そこから「葭原(よしわら)」と呼ばれ、やがて「吉原」になったといわれている。その後、江戸の開発が進み、浅草寺の裏手にあたる日本堤に移転することになった。現在、色街としてよく知られている吉原は移転後の吉原だ。周囲には黒板塀がめぐらされ、お歯黒どぶに囲まれていた。出入りは大門の1ヵ所のみだ。
遊女屋では表通りに面した格子がはめられた「張見世」という部屋に遊女たちが座って道行く男たちを誘い、男たちは気に入った遊女を選んで遊んだ。また大見世と呼ばれる規模が大きく格式の高い店で遊びたいと思ったら、男性は引手茶屋を通して茶屋の2階で宴を開き、その後に遊女屋へと移動して遊女と床に入るという手順が必要だった。
しかし、隆盛をきわめた吉原も明治維新とともに状況は大きく変わる。