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 吉原は徳川幕府のときと同様に遊女と遊ぶ代金である揚代の一部を新政府に上納することで営業が認められていた。一方、遊廓の遊女たちは奴隷と同じだという諸外国からの批判が高まり、新政府は1872(明治5)年10月に「芸娼妓解放令」を発布した。けれども、遊女屋は貸座敷と名前を変えて存続し、娼妓、つまり遊女たちは場所を借りて自らの意思で営業しているという体裁を取ることになり、その実態は、ほぼ変わらなかった。

 吉原の女たちは貧しい農村や没落した商家などから身売りされて来た者がほとんどだった。しかし、日本に欧米のキリスト教的な倫理観が入ってくると、遊女たちが差別の対象となってくる。1900(明治33)年に「娼妓取締規則」が制定され、遊女の自由廃業が可能となったが、一方で、身売りされる女性はなくならず、吉原も存続し続けた。

「吉原」という名の町名は消滅

 太平洋戦争末期、東京大空襲によって吉原も焼け野原になった。

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東京大空襲の被害を受けた銀座 ©getty

 しかし、すぐに東京都と警視庁から吉原再建の命令が下り、1945(昭和20)年8月には焼け跡のビルを改修して営業を再開した。間もなく終戦を迎えると、今度は日本政府が進駐軍向けのRAAを東京の大森海岸など全国に設けた。

 1946(昭和21)年にはGHQに従って公娼は廃止されることになり、兵士たちの間で性病が蔓延したこともあって、RAAも閉鎖。吉原は翌年には「特殊飲食店街」と名称を変え、借金の証文を破棄。遊女たちは借金に縛られているのではなく、飲食店で働きなが自由恋愛で性行為をしているという建前が取られた。

 1956(昭和31)年5月に「売春防止法」が成立。2年の猶予をもって吉原の特殊飲食店も営業を終了した。代わりに吉原にはトルコ風呂が増えていく。トルコ風呂とは、当時は男性客に対して女性が垢すりを行う個室つき浴場。やがて性的サービスも行われるようになっていったのだ。

 現在では町名も変更され、住所としての「吉原」は存在しない。こうして形を変えながらも400年近く続く色街では、いまも多くの女性が働き、男たちの欲望を満たし続けているのだ。