若かりし頃は「来季は君とは契約しない」と戦力外通告を受けたことも……その後はバッティングセンター管理人として働くも、数奇なめぐり合わせから2億円プレーヤーにまで成り上がったプロ野球選手とはいったい?
スポーツライターの中溝康隆氏の最新刊『起死回生―逆転プロ野球人生―』(新潮社)より一部抜粋してお届けする。(全2回の2回目/前編を読む)
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近鉄にドラフト5位で入団
「ドラちゃんはピッチャー、クビや」
その新人選手は、春季キャンプで忘れ物を届けた一軍のコーチの部屋でいきなりそう通告される。風貌がドラキュラに似ていることから、“ドラ”と呼ばれるのは近鉄時代の山本和範である。
守備走塁コーチの仰木彬は酒豪で知られ、すでに部屋の床には空のウイスキーのボトルが数本転がっていた。山本の著書『マイストーリー・マイウェイ』(デコイ・ブックス)によると、急な展開に唖然としていたら、隣の杉浦忠投手コーチからも「明日からバッティングの練習をしなさい、ということだよ」とダメ押しされてしまう。野手転向という野球人生を左右する重要なことを酔っ払いながら言われたこともショックだった。
実は入団直後から、打撃練習でコーチの投げるボールが遅すぎるとホームベースより2メートル前に立ち、右翼場外へ打球をかっ飛ばした山本の打力が高く評価されていたことを本人は知る由もない。
18歳で巨人の入団テストを受け合格したが、山本は高校1年時に留年していたため、母の強い希望もあり、学業を優先させ入団は見送った。翌年秋も巨人と南海ホークスのテストを受け、南海二軍監督の穴吹義雄は「南海は君を4位か、5位か、6位で獲るつもりでいる」と声をかけてくれたという。
しかし、1976(昭和51)年ドラフト会議では近鉄が5位指名。当時の近鉄は、指名を受けた選手の父親が「こんなこといったら失礼ですが、人気のセに指名してもらえればよかったのですが……」と嘆くほど敬遠されがちで、同年の1位右腕・久保康生も「パ・リーグはどうも気のりしません。まして近鉄についての知識などありません」なんて迷惑顔。そういうチームで山本のプロ生活は始まった。
しかし、キャンプ中に投手から打者転向、さらに1年目が終わると内野から外野コンバートを命じられる。左耳が生まれつきの難聴で、守備が下手なのは打球音が聞こえないからと陰口を叩かれるのが悔しかった。
今に見てろよとひたすらバットを振り、二軍で打率3割を超え、ウエスタンベストテンの常連になっていく。死球を受けても「当たってません!」と審判に食い下がってまでタイムリーを狙い、選手名鑑で趣味を聞かれ、他の選手が「ゴルフ」や「レコード鑑賞」と無難な回答をする中、ひとり「無趣味」と答える。そんな不器用な男を周囲は、変わり者と呼んだ。