我が道を行く若かりし日のドラ山本だったが、ファンレターをくれた女性と文通を続け(のちに結婚)、寮では「マージャンでもドラは大切。だから、オレはドラなんだ」なんて言ってマージャンを楽しんだ。
元同僚の金村義明は、門限を破って寮に帰ってきた山本が怒るコーチに向かって、「腹が減ってはバットは振れん!」なんて逆ギレをかましたが、みんな「それは門限破りと関係ないやん!」と心の中で突っ込みを入れたと自著『80年代パ・リーグ 今だから言えるホントの話』(東京ニュース通信社)の中で楽しそうに回想している。
厚かった一軍の壁
「20万円、上げてください」
山本はある年の契約更改で球団側にささやかな要求をするが、二度目の交渉が終わった翌朝、球友寮の電話が鳴る。すると、球団代表はねぼけまなこの若者にこう告げた。
「ファームはあくまで選手の養成をする場所だ。こちらの提示する額が気に入らなければ契約しないでよろしい」
野球で成り上がるために九州からひとりで大阪に出てきたのに、こんなことで終わってしまうのか……。焦った山本は必死に頭を下げ、本堂保次二軍監督の仲介もあり何とか契約にこぎつけた。そして同時に悟るのだ。まだスマホもインターネットもない時代、「週刊ベースボール」掲載のウエスタン打撃成績を見ることが励みであり、楽しみだったが、ファームで打率3割を残そうが、二軍の成績に意味はないと。
転機はプロ4年目だった。一軍で初の開幕スタメンを勝ち取り、時間はかかったが初安打初本塁打も記録した。その年の秋にはアメリカ野球留学のメンバーにも選ばれ、センターで使ってもらい、打球判断や素早い送球の基礎を学び、不安を持っていた外野守備のコツみたいなものを掴んだ。しかし、一軍の壁は厚く、年俸は300万円前後をウロウロ。もっとオレに出番をくれと願いつつ、6年目の82年シーズンを終えた契約更改の席で、突然「来季は君とは契約しない」と戦力外通告を受けるのだ。
心配した同期入団で同郷の久保が、知人のバッティングセンターの経営者に連絡してくれた。そして、クビになったバットマンは、バッティングセンターの管理人として泊まり込み、店が終わった夜中にひたすら白球を打ちこんだ。
だが、男の運命なんて一寸先はどうなるか分からない――。
そんな山本に救いの手を差し伸べたのは、南海ホークスだった。