現役生活はわずか7年、度重なる怪我やメニエール病に悩んだことも……。ここでは2023年、WBCで日本を世界一に導いた栗山英樹さんの人生に密着。現役時代は決して輝かしい成績を残したとはいえない彼は、いかにして野球史に残る偉業を果たしたのか――。

 スポーツライターの中溝康隆氏の最新刊『起死回生―逆転プロ野球人生―』(新潮社)より一部抜粋してお届けする。(全2回の1回目/後編を読む)

現役時代は決して輝かしい成績を残したとは言えない栗山英樹さん。彼がそれでも野球史に名を残す名監督になれたワケとは―― ©文藝春秋

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国立大出身の異色のプロ野球選手

「キミはいいセンスをしている。もう少しがんばればプロでもやれるぞ」

『プロ野球ニュース』のキャスター佐々木信也氏は、息子が出る大学の練習試合を観戦に行った際、対戦相手で3本のヒットを打った若者に、そう声を掛けたという。その選手こそ、東京学芸大の栗山英樹である。

 投手としては4年間で25勝8敗、打者としては打率.389をマーク。身長174センチ、体重72キロの小柄な体型だったが、50メートル6秒フラットの俊足と遠投120メートルの強肩の持ち主。しかし、注目度の低い東京新大学リーグ所属のため、ほぼ無名の存在だった。教育学部在籍で教員免許を取得、朝日生命への就職内定も決まっていた。

 だが、栗山は野球への想いを捨てきれなかった。知り合いを介して西武とヤクルトの入団テストを受け、ヤクルトの合格通知を勝ち取るのだ。とは言っても1983(昭和58)年のドラフト外入団で、同期の1位は高野光(東海大)、2位には池山隆寛(市立尼崎高)らアマ球界のスター選手たちがいた。プロ入りに反対すると思っていた厳格な父親は意外にも応援してくれたが、息子を心配する母親に対しては「3年間やらせてくれ」と懸命に説得した。

「国立大出身の異色のプロ野球選手」への注目度は高く、「週刊ベースボール」84年7月21日号でも“国立ボーイ”と報じている。大学の卒論テーマは2カ月かけて自ら統計を分析した「高校野球に於けるカウント1-3からのバッティング」で、結論は「塁に出るためには待球がベスト。ヒットの確率より五倍以上も四球の方がいい」だった。